目撃者が語る「新宿騒乱」 暴徒2万人超え、743人がお縄に

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 いまや世界一の利用者数を誇る巨大ターミナル駅となった新宿駅が、その晩、突如として“騒乱”の真っ只中に放り込まれた。 

 昭和43年(1968)10月21日の“国際反戦デー”を機に、ゲバ棒を手にした学生たちは続々と新宿駅に集結。怒号のようなシュプレヒコールが飛び交い、ジグザグデモのうねりは東口広場を埋め尽くした。

 奇しくも、同じ日に20歳の誕生日を迎えた、社会学者で東工大名誉教授の橋爪大三郎氏(66)もその渦中にいたひとりだ。

「日が暮れる頃には、駅前の東口広場で学生と機動隊が派手にやり合い始めた。私も叩き割ったコンクリートの欠片を機動隊に投げつけました。現在のスタジオアルタがある辺りなど、ぎっしり野次馬の人だかりができている。なかには“もっとやれ”と、学生に石を手渡している人もいた」

 狂乱は物見遊山の人々にも波及し、ヘルメット姿の学生に交じって、投石を始めるサラリーマンまで現れた。警備車両には火が放たれ、激しい爆発音と共に黒煙がもうもうと立ち上る。 

 一部の学生は大ガードに設置された映画の大看板を引き剥がして、猛然と駅構内へと雪崩れ込んだ。

 それは「60年安保闘争」以降、精彩を欠いていた学生運動が、俄かに息を吹き返した瞬間でもあった。

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 当時、新聞社やテレビ局の社員によって組織された「マスコミ反戦連合委員会」で、委員長を務めた蔵田計成氏(80)が解説する。

「60年安保以降は、デモにしても両端を警官隊に挟まれる“サンドイッチデモ”が増えていた。あたかも羊の群れのような行進ですが、それが実力闘争路線に転換したきっかけは、42年10月の“羽田闘争”でした。佐藤栄作総理の南ベトナム訪問を阻止するため、新左翼各派は羽田空港付近で機動隊と衝突。中核派の京大生が死亡するなど、世の中に大きな衝撃を与えたのです」

 ゲバ棒にヘルメットという闘争スタイルが定着したのもこの時だ。“安保反対”に代わり、“ベトナム反戦”という新たな旗印を掲げ、学生運動は徐々に盛り上がりを見せていく。そして、“新宿騒乱”というピークを迎えるのだ。

 その前年、新宿駅では、ベトナム戦争で使われる米軍の航空機用ジェット燃料を積んだタンク車が衝突事故を起こしている。学生たちは新宿駅を陥落させることで、“米タン”の走行を阻止しようと考えた。

 一方、当時の新宿は若者たちの溜まり場でもあった。 西口地下広場では頻繁に反戦フォーク集会が開かれ、週末になると学生や若いサラリーマンが群れを成した。

 そんな新宿を舞台とする“市街戦”に、映画監督の原一男氏(70)も胸を高鳴らせたという。

「あの日は世田谷区・梅ヶ丘の自宅アパートにいましたが、新宿のデモの様子をニュースで見て、居ても立ってもいられなくなった。すぐに小田急線に飛び乗って、新宿駅に着いたのが午後6時頃。電車を降りると警官隊が待ち構えていて、武器を持っていないか鞄の中身をチェックされました」

 ホームには、野次馬根性でデモに参加しようとする若者が溢れていたという。

「西口のロータリーに出ると、もはや完全な無秩序状態。機動隊に追われる学生の集団に巻き込まれて、私も歌舞伎町方面に逃げる羽目になった。しょんべん横丁の脇を駆け抜けた時には、誰かが山手線の高架橋から飛び降りたのが見えました。地上から7、8メートルの高さはあるので、とても無事では済まなかったはずです」

 同じ頃、橋爪氏は東大の同級生に誘われて革マル派のデモ隊に加わった。

「集合場所の公園には数千人の学生が集まりました。集会が終ると、機動隊を避けながら、駆け足で裏道を新宿方面に向かいました。その後、代々木駅近くから線路に侵入。山手線の線路づたいに新宿駅のホームに着いてみると、他のグループの学生たちがもう駅を占拠していました」

■完全な負け戦

5個隊の機動隊を投入したが…(写真はイメージ)

 デモ隊に加えて野次馬も駅構内に殺到し、暴徒は2万人を超えたと言われる。

 線路のまくら木や計器類が破壊され、南口の大階段も炎に包まれた。

「警察からすれば、新宿騒乱は完全な負け戦です」

 警視庁の外事一課長ながら機動隊を指揮した佐々淳行氏(84)は眉を顰める。

「5個隊の機動隊を投入しましたが、翌朝、自分の足で立っていられた隊長は2人だけ。約3200名と数で劣る機動隊員は殴られ、踏んづけられ、コテンパンにやられたわけです。加えて、混乱の最中にデモ隊に拳銃を奪われる失態もあった。これに激怒した警視総監から一斉検問を命じられたんですが、とんでもない話でね。包囲されているのは機動隊員なんだから、検問どころじゃなかった」

 この大混乱に終止符を打つため、翌10月22日午前0時15分、16年ぶりに騒擾罪(現在の騒乱罪)が適用され、743人がお縄となる大捕物が繰り広げられた。

 とはいえ、学生たちは端から逮捕は覚悟の上だった。

 橋爪氏によれば、

「同級生からは、革マル系の弁護士の電話番号を語呂合わせで教えられました。もし逮捕されたらこの番号に電話しろ、つまり、黙秘権を行使せよ、ということです。事件当日は私の20歳の誕生日だったので、逮捕されるとまずいなぁ、とぼんやり考えていました」

 先の蔵田氏が、この“事件”について述懐する。

「新宿騒乱は、学生たちに大衆闘争の意味を再確認させました。私自身、あれほど群衆の力に圧倒され、大きな波に呑まれるような経験をしたのは初めてでした」

 武装蜂起によって、学生運動はかつての勢いを取り戻したかに見えた。だが、それは、終わりの始まりを告げる“祭り”でもあった。

特集「伝説となった『全学連』『全共闘』ハイライト」より

週刊新潮 2015年8月25日号別冊「黄金の昭和」探訪掲載

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