東京五輪で銅メダル「円谷幸吉」のマル秘資料――相馬勝(ジャーナリスト)

スポーツ週刊新潮 2016年8月25日秋風月増大号掲載

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 五輪陸上競技の最後を飾る男子マラソン。その舞台で日本人として初めて表彰台に立ったのが、故・円谷幸吉だ。彼にまつわる「マル秘資料」をジャーナリストの相馬勝氏が入手。そこには、近年苦戦が続く日本マラソン界への、貴重なメッセージが遺されていた。

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マラソン日本、復活なるか(イメージ)

 ここにひとつの文書がある。

 1964年東京五輪男子マラソン銅メダリストの円谷幸吉。その故郷、福島県須賀川市にある「円谷幸吉メモリアルホール」の展示ケース下の物入れにホコリをかぶって眠っていた「マラソン競技者調書」である。B5用紙11ページからなるそれは、筆者は円谷、宛先は日本陸連であり、肩に「マル秘」の印が押されている。円谷といえば、68年のメキシコ五輪直前、「もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」という遺書を残し、自ら命を絶った悲劇のランナーだが、これが書かれたのはその1年から2年前のことだ。

 7人いた円谷の兄弟姉妹は多くが世を去っている。存命の兄・喜久造(84)は、

「この文書を見たのは初めてです。存在すらまったく知りませんでした」

 と語り、また、往年の名ランナーで、円谷のライバルだったメキシコ五輪マラソン銀メダリスト・君原健二(75)も、

「初めて見ました。私には提出の依頼はありませんでしたし、他のランナーからも、調書を書いたという話は聞いたことがありません」

 と言う。

 リオデジャネイロオリンピック最終日の8月21日、男子マラソンの号砲が鳴らされた。日本からは佐々木悟、北島寿典、石川末廣の3選手が出場したが、結果は惨敗。2時間8分44秒で金メダルのケニアのエリウド・キプチョゲに対し、日本トップは佐々木の16位(2時間13分57秒)、石川は36位、北島は94位に終わった。

 かつては円谷、君原はじめ、瀬古利彦、宗茂・猛兄弟、中山竹通、谷口浩美、森下広一らキラ星のごとき世界的ランナーを生み出してきた日本の男子マラソンは14年間も日本記録が更新されておらず、世界との差は広がるばかりだ。世界陸上のメダルは2005年ヘルシンキ大会の尾方剛の銅メダル以来なく、国際大会での優勝も少なくなった。五輪に至っては1992年バルセロナ大会の森下の銀メダル以降、四半世紀も遠ざかっている。

 なぜ、日本のマラソンはかくも長い間、苦闘が続いているのか。

 先の調書はすでに表紙が真っ黒に変色し、ところどころ読みにくい箇所もある。しかし、そこに溢れた円谷の“精神”からは、マラソン黄金期へ向かう時期のトップ選手が何を考え、何と戦ってきたのか、そして、低迷期のいま、何が日本選手に欠けているのか、そのヒントが隠されているような気がするのである。

■野生の実力

 その調書は、陸連による〈マラソンについて〉、〈練習について〉、〈競技会について〉などの5項目のテーマに対し、円谷が所感を述べる形式となっている。それぞれの項目の中にもいくつかの質問が並んでいるため、全体の質問の数は50以上に上り、〈マラソン競技者の心構えについて〉などの抽象的なものから、〈練習時の食事の内容について〉など具体的なものまで多岐にわたっている。

 なかでも最も異彩を放つのが、〈今後マラソンを志す若い競技者が心がけねばならぬ点について〉という問いに対しての円谷の答えだ。

「人間が造り出した文明の利器に便り過ぎてはいけない。科学的な裏付けは必要であるがトレーニング、その他生活面においては非科学性であった方が、精神面、堅忍持久の精神が生れるものと思う。便利主義は人間を弱める。野生的な実力は野生の中に生れると思う」

 現在のマラソン界は科学的トレーニング全盛期。

 しかし、先の君原は言う。

「当時は科学的トレーニングなんてほとんどありませんでした。円谷君も含めて私たちは、科学的というよりも若さに任せ、そのときの感性で、猛烈ともいえるほどの練習をしていました」

 その中身がすさまじい。

「東京五輪の年の64年8月の札幌合宿で、1週間に3回も大会を走りました。まず1万メートル。2日後にフルマラソン。その5日後に再び1万メートルです。最後の1万メートルでは、円谷君と一緒に日本記録を更新しました。その前日には10キロジョグと400メートルのインターバルなどを含めて合計42キロ走っていました。ちょっと、いまでは考えられないほどの練習量です。昔はこういう科学的トレーニングを無視したような、原始的で、自分の感性に合わせた練習をしていました」

 実は、この札幌合宿について、円谷も調書で触れている。〈重要であったレースについての反省〉という質問項目に、次のように答えている。

「北海道における1週間で3回のレースは、後に(東京五輪の=筆者注)マラソン(本番)の調整に役立った。なぜなら、(開会式翌日の=同)10月11日35K(マラソンの為)を走り、中2日おいて14日は10,000Mの決勝であったが、これらの(北海道での=同)体験から一つも不安を抱かず走れた」

 結果から考えると、円谷の場合、札幌合宿のような激しい練習の体験がタイミングよく五輪本番で生かされたといえそうだ。

 これらの練習は何をもたらしたのか。

 後を受けるのは、88年のソウル、92年のバルセロナ五輪でともに4位に入賞した中山竹通(56)である。中山はただ「がむしゃら」な練習論には批判的だ。

「当時はマラソンを走るための効率的なデータもそろっていなかった時代でした。根性論が全盛で、なにごとにも“根性”が強調され、科学的トレーニングはなおざりにされていたと思います」

 しかし、その普及によって生まれる“落とし穴”をこう指摘する。

「それに比べて、いまはデータが豊富にそろっています。個々の選手についても、科学的に積み重ねられたデータが蓄積され、コーチや監督に管理されています。練習内容もすべてお膳立てされていて、それ以外の練習はさせてもらえない状況です。だからこそ、円谷さんや君原さんの時代のような一見、無茶苦茶とも思える練習を体験することが、長い選手生活の中で、自分なりにどのような練習をしたらよいのかを考えるきっかけになるのです」

 中山は言う。

 100-98、2×1、あるいは100÷50――。どれも答えは「2」だ、と。

「私が目指してきたのは、いまの選手のように、1+1=2といった、画一的な式が与えられているような練習方法と違い、答えが2ならば、それに到達するための式が無限にあるマラソンでした。要は自分に合った練習方法を編み出すことです。そのためには感性が必要ですが、自分の監督時代には、いまの選手は監督やコーチの言いなりで、自分が勝つためには何をしなければいけないかというプロ意識が欠如していると痛感しました」

 同じ陸上でも、トラック競技と異なり、マラソンはコースやその日の天候によって大きく条件が異なる、計算のできない世界。また、レースのスタイルも各々千差万別だ。その中で円谷は、一見、無茶苦茶とも思える練習を通じ、そうした世界に対応する「野生的な実力」を身につけていったのではないかと思えるのだ。

■マラソン即教育

 先の回答でも、「精神面、堅忍持久の精神」と述べているように、調書全体に流れるのは、異常な程に「精神力」に重きを置く円谷の姿勢である。

 例えば、彼は、〈その他〉という自由筆記の箇所で、

「全ゆる環境に順応出来る身体と精神力こそがその本人をより前進させる根源と思う」

 と記している。

 さらに、〈マラソンを通じての人生観、社会観について〉との問いかけには、

「マラソンはごまかしがきかない真面目なスポーツである。自己を裏切れば、その結果が成績として現われる。正しい生活、正しい精神、正しいトレーニングにより実力が発揮される。マラソン即人間教育であり、社会教育と考える」

 と述べているのだ。

 前出の君原は、

「マラソンは心技体がそろっていないと記録が出ないメンタルなスポーツだと思います。42キロ以上をコンスタントに、自転車並みの時速約20キロで2時間以上走るのですから、生身の人間ならば苦しくないはずはありません。それを乗り越えるには、鍛えぬかれた身体能力とともに、最終的には強靭な精神力が必要となります。その傾向が他の競技よりもいっそう強いのではないでしょうか」

 と強調する。

 また、中山は、円谷が言う「精神力」の重要性について、次のようなエピソードを明かした。

「86年の東京国際マラソンは最悪の状態で、レース2週間前に足を捻挫してしまい、レース直前まで走ることができませんでした。87年の東京―NY友好マラソンもアキレス腱を故障し、腫れたままでレース当日を迎えました。いずれも国立競技場に入って観客席を見上げたら、自分は絶対走らないといけない状況になっているんだと全身で感じました。無意識に“痛い”という気持ちが消えていました。人間の体には脳から痛みを消す麻酔薬が出ることがあるそうですが、まさにそんな体験でした。これも、追い詰められたぎりぎりの極限状態における精神力であり、野生的な力だと思います。いまの選手はそういう経験をするほど極限まで追い詰められることはないですね」

 中山は、高校卒業後、一時は一般の会社に就職しながら競技を続けた経歴を持つ。いわば「エリート」ではなかっただけに、その言葉はいきおい厳しくなる。

「我々の時代は、戦後すぐほどではありませんが、まだまだ貧しく、施設やウェア、シューズなどの面でも貧弱で、練習メニューも科学的ではなく手さぐりの状態でした。だからこそ、地の底から這い上がってでもトップを目指すというハングリー精神を持つことができたと思います。いまは豊かですが、逆境はありません。高校時代から駅伝がテレビ中継され、大学でも駅伝選手がちやほやされ、社会人になったら実業団に入って、そこそこ頑張って、その結果故障して競技が続けられなくなっても、会社が定年まで生活の面倒を見てくれるという状況です。これでは、世界のトップを目指して、頑張れるわけはありません。円谷さんの言うような『野生』どころの話ではないのです」

■狂気じみた練習

 しかし、こうした強い“精神”を持っていたにもかかわらず、あるいは、こうした“精神”を持っていたがゆえになのか、円谷はあまりに早い死を選んだ。

「なぜ、幸吉が自殺を選んだのか? “出会いが悪かった”としか言いようがありません」

 と前出の円谷の兄、喜久造は無念そうにうめいた。円谷は当時、深刻な腰痛を抱え、また、所属していた自衛隊体育学校でも人間関係のもつれから、信頼厚かったコーチが左遷された。

「幸吉は仲間から引き離されて、幸吉を知る人間、幸吉に遠慮なく直言できる人間がいなくなってしまった。走れず、自衛隊体育学校に閉じ込められていれば、死ぬしかなかったのです」

 そして、いまでも複雑な感情を抱いていると言う。

「いまの選手が伸びてこないのは、幸吉が遺書の中で“疲れ切ってしまって”と書いたことで、若手選手が“円谷選手と同じように、そこまでやったら、死ぬことになる”と考えてしまうなど、遺書の文言が影響しているからではないかと時々思ってしまうのです」

 兄の思いは胸に迫る。

 しかし、これは間違った解釈だと思う。

 円谷の本質が「精神力」や「野生的な実力」にあるのならば、現代において、もっともその可能性を思い起こさせるのが、公務員ランナー・川内優輝(29)ではないだろうか。

 毎月のようにフルマラソンを走り、意識朦朧の状態でゴールに倒れこむ姿は、“野生の精神”を感じさせる。

 その川内に、調書の中身について聞いてみた。

「円谷選手と比べると著しく低いレベルではありますが、私の1500メートルと5000メートルの自己ベストも、円谷選手と同様にマラソンの直後のレースです。12年9月にシドニーマラソンで優勝した6日後の競技会で1500メートル、その翌日、5000メートルでも自己ベストで走っています」

 科学的な知見からは、自己ベストの更新は難しいケースだ。同質の経験を持っているだけに、川内は、円谷の言葉にシンパシーを隠さない。

「“マラソンはごまかしがきかない真面目なスポーツ”“野生的な実力は野生の中に生れる”という調書の言葉に共感します。科学的な数値に一喜一憂しながら管理されるよりも、“地味で単調なトレーニングを毎日毎日繰り返し継続していく中で、時々、レースを含めて狂気じみた練習を入れていくこと”の方が、マラソンで結果を残すためには大切だと、私も信じてトレーニングを積んでいるからなのです」

 円谷幸吉の「遺言」は今も生きているのかもしれない。マラソン日本復活の日が切に待ち遠しいのである。(文中敬称略)

「特別読物 東京五輪で銅メダル『円谷幸吉』のマル秘資料――相馬勝(ジャーナリスト)」より

相馬勝(そうま・まさる)
1956年生まれ。東京外国語大学を卒業後、産経新聞社に入社。主に外信部に所属し、香港支局長などを務めた。2010年に退社し、フリージャーナリストとして中国関係の書籍、記事などを執筆。ランニング歴は20年を超え、フルマラソンも20回走破している。