結婚か、それとも家族か 「とと姉ちゃん」と「原節子」の選択

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 愛する人がいる。支えなければならない家族がいる。どちらも大切な存在なのに、どちらかを選ばなければならない。選択を迫られた彼女は、家族を選んだ――。

 6月8日の放送で、帝大生・星野武蔵に「とと姉ちゃん」こと小橋常子が結婚を申し込まれ、10日にはそのプロポーズを断っている。その決断に涙を誘われた人も多かったのではないか。何を隠そう、筆者もそのひとりである。と同時に、涙を拭うわたしの脳裏には、ある人物が思い浮かんでいた。

 原節子。「永遠の処女」と呼ばれ、大和撫子の見本のように見られた伝説の映画女優である。とと姉ちゃんのモデル、大橋鎭子と原節子は同じ1920年生まれ。ともに家族を守るため、男社会の中で仕事をして、生涯独身を貫いた。人生は選択の連鎖だ。岐路で進路を選び取り、自らの人生を切り拓く。ふたりとも、きわめて現代的な女性だった。

■私が惹かれた原節子なら、私を拒絶するはず

 原節子が映画女優としてデビューしたのは1935年、15歳のときである。42歳のとき、そうと宣言しないまま“引退”し、その後50年以上、人目を避けるようにひっそりと暮らした。

「原節子さんは登場するとシーンのすべてを支配するというか、存在感が圧倒的なんですよ。唯一無二の女優だと思います。ただ、わたしがより強く惹かれたのは、映画界から突然姿を消し、以後、半世紀以上も世間との関わりを絶つという生き方を選んだ点でした。一体どういう人なのか、それを知りたいと思ったんです」

 そう言うのは『原節子の真実』の著者、石井妙子さんである。原節子の肉声や足跡を3年以上かけて丹念にたどり、「確実と思えるもの」だけを積み重ねて、人生の一時期を「原節子」として生きたひとりの女性、会田昌江(原節子の本名)のミステリアスな実像を鮮やかによみがえらせた。

「お誕生日の6月17日には必ず、思いを綴った手紙と花束をもって、鎌倉のご自宅をたずねました。ご本人は絶対会ってくださらないということもわかっていたんですが、それでもうかがいたくて。仮に会ってくださったとしたらすごいことですけれど、それは私が惹かれた原節子さんではない。完全に世間を拒絶するという生き方を私に対しても貫いてほしいという気持ちがありました」

 石井さんの言葉に、筆者は「とと姉ちゃん」で星野武蔵が口にした言葉を思い出してしまった。プロポーズを断られたときに口にした精一杯の台詞。相手を深く理解すればこその言葉。

「僕を選ぶ常子さんは、僕の好きな常子さんではない」

「僕が好きになった常子さんであれば、結婚よりもご家族を選ぶ」

 原節子もまた、結婚よりも家族を支えることを選んだ人だった。

■「なぜ結婚しないのか」

「15歳から働き続けるうちに、もともと弱かった内臓を病むようになり、失明寸前にまでなりました。それでも働き続けた最も大きな理由は、責任感だったと思います。彼女には養わなければいけない家族がいましたから」

 石井さんはそう話す。

「彼女には2人の兄と、4人の姉がいました。長兄はシベリア抑留中に亡くなり、映画のキャメラマンだった次兄は撮影中に事故死。すぐ上の姉も戦争で夫を失いました。だからボロボロのからだで仕事を続けたのです」

 戦争が終わったとき、原節子は25歳だった。戦後、彼女はインタビューのたびに結婚について聞かれるようになる。

「なぜ結婚しないのか」

「結婚をどう思っているのか」

 たいていは「結婚したいけれど、ご縁がなくて……」などと言ってやり過ごしたが、後年になって、たくさん縁談が持ち込まれていたと告白している。それらをニベもなく断っていたことも。

「原節子さんには、一度だけ結婚を意識した青年がいました。戦争中、20代前半の頃の話です。脚本家の青年でしたが、トップ女優だった彼女の結婚を阻止するべく、映画会社の上層部が青年を放逐しました。彼女はかなり苦悩したと思います。自分が愛したせいでひとりの男性の人生を狂わせてしまった、と」

 生涯独身を貫いた原節子は、引退後、知人にこう漏らした。

「恋愛は一生に一度しかないもの、その一回が永遠で、それがきのうのことのように忘れられない」

 2015年9月5日、会田昌江は静かにこの世を去った。享年95。最期まで、自らの生き方を崩すことはなかった。

デイリー新潮編集部

2016年6月17日掲載

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