【「原節子」の後半生】生糸暴落と母の頭部大火傷が美少女時代に落とした影

芸能週刊新潮 2015年12月10日号掲載

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〈女学生時代には教育家になろうと考えたり、英文学をやろうと思ったり〉

 原節子は、自叙伝の中でかつて憧れた職業をそう述べている。しかし、彼女が選んだのはまったく異なる「女優」の道。背景には、秘められた家族の“事情”があった。

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 原節子こと會田昌江が生まれたのは1920(大正9)年6月。現在の横浜市保土ヶ谷区においてである。

「昌江ちゃんとは家が3軒しか離れていなかったもんだから、家族ぐるみのお付き合いをしていました」

 10年程前、保土ヶ谷尋常小学校時代で原の同級生だった女性は、本誌の取材にそう答えている。

「とにかく縞麗でスタイルがいい。おまけに頭もすごく良かった。その頃の小学校のテストは7科目各10点ずつで70点満点でしたが、昌江ちゃんは69点も取るの。いつも級長で赤いリボンを付けていました」

 当時、彼女の父は日本橋で衣類関係の問屋を営んでいた。その頃の日本は世界一の生糸の輸出大国だった。

「あの家も景気が良くて、家に上がると、玄関に『いちはつ』の花がずらっと並んで椅麗でしたね。お姉さんたちは、振袖を着て、フェリス(女学院)に横須賀線の2等列車(=グリーン車)で通っていました」

着た切り雀

 恵まれた幼少期を送ったかに見える「昌江ちゃん」だが、親しい友人たちは、その裏にある影にも気付いていた。

「お母さんがかわいそうな人でね。関東大震災の際、沸騰した鍋を頭からかぶってしまったのです。近所で“小町”と言われるほどきれいな人だったのに、毛が抜け落ち、少し頭がおかしくなってしまった」

 大震災の時、彼女はまだ3歳。物心付いた頃、母は既に普通の母ではなかった。

「白い服を着て近所をウロウロしていた。次第に座敷牢のようなところに閉じ込められてしまいました。昌江ちゃんも“お母さんがうわごとをブツブツ言っているの”と悩んでいてね」

 追い打ちをかけたのが1929年の世界恐慌である。最大の輸出先のアメリカを失い、生糸の価格は暴落。

「家はとたんに傾き、昌江ちゃんはいつも同じ服ばかり着る“着た切り雀”になった。卒業後は、横浜高等女学校に進んだのですが、家計を助けるため、2年で中退してしまったんです」

 會田家には、もう末娘を学業に専念させる余裕はなくなっていたのだ。

 1934(昭和9)年、彼女は生まれ育った保土ヶ谷を去り、姉の嫁ぎ先の熊谷久虎家に身を寄せる。義兄の半ば強制的な勧めで銀幕デビューを果たすのは、その翌年のこと。

「その後はクラス会に誘っても“もう皆に会いたくないの”と断られてしまいました。保土ヶ谷にいた頃のことは思い出したくなかったのかもしれません」

 原節子にとって、女優業は華やかさの一方、家族の暗い過去を色濃く引きずるものでもあった。42歳であっさりと身を引いた裏には、そうした呪縛から解き放たれたい、という願いが働いたのかもしれないのである。

「特集 総力取材! 実の姉が告白! ロマンスの目撃者! フェイドアウトの真実! ヴェールを脱いだ『原節子』隠遁52年間の後半生」