崩御を受けてようやく発表 死して聞き届けられたその思い〈がん告知を主張した医師の遺書 初公開(4)〉

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 昭和62年9月、「病理組織検査」を経て、昭和天皇のがんが明らかになる。しかし、侍医長は“慢性膵炎”と発表。検査を担当した東大医学部の浦野順文教授の“真実を公表すべきだ”との提案は受け入れられず、教授は「遺書カルテ」ともいうべき文書にこう綴った。〈陛下の御病気を最後まで慢性膵炎で押し通すことは難しいと考え、(中略)いつの日にか真の病名を公表せざるを得ない時が来ると思った。〉末期の肝臓がんに蝕まれた浦野教授に残された時間は、わずかだった。

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「病理組織検査」を担当した浦野教授が遺した文書

 年が明けて63年。“陛下の崩御後に放映する”との条件で、自身の手掛けた検査の結果をテレビカメラの前で明らかにすべく、浦野教授は渋谷のNHKへと向かった。1月6日のことである。すでに黄疸が現れていたものの、

「収録が終わると、本当に満足そうでした。『医師として、死ぬ前に真実をお伝えしたい』というのが主人の願いだったのです」(純子夫人)

 続く13日にも病院を抜け出し、東大で「最終講義」に臨んだ。この時もおびただしい腹水が認められ、

「ズボンが入らないので私がはさみで切って穿かせました。検査の労をねぎらって陛下から賜った銀杯で、力を振り絞るようにして氷水を飲み干して出かけたのです。講義は『病理学総論』。私も教室に付き添いましたが、主人は『我々は受精した時から死に向かっている』。そう医学生に説いていました」(同)

 その2日後の1月15日、浦野教授は55歳で旅立った。いまわの際で夫人に「抜けた感じがする」とだけ言い残して――。

昭和天皇

■“病理学者の苦悩と死”

 翌年、昭和天皇の崩御を受け、会見で高木顯侍医長は、

〈術後の臨床経過などより勘案し、あわせて病理側の意見を聞いて、最終診断は「十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺がん)」とする〉

 ようやくがんが公表され、その2日後のNHKニュースでは“陛下をがんと診断した病理学者の苦悩と死”とのタイトルで、およそ1年前に収録された浦野教授のインタビューが放映された。番組では自身の主張とともに、

〈日本では一般的にがんを患者に告げないことの方が、まだ多い〉

 当時の風潮について、そう答えていたのである。

故・浦野順文教授

■病室からは吹上御所が

 浦野教授の開腹手術を行った半蔵門病院の元外科部長で、三浦病院の三浦健院長が言う。

「病院は英国大使館の真裏で、浦野さんの個室は皇居に面していました。窓の外の吹上御所を日々眺め、陛下の御身を案じていたのでしょう。大学の講義から戻ったのち、急に意識がなくなり、まもなく昏睡状態に陥ってしまいました」

 教授にがんを告知した、元東大病院第一内科教授の遠藤康夫・三楽病院名誉院長は、

「浦野さんは学生の時に結核にかかり、手術時の輸血でC型肝炎に感染してしまった。そこから慢性肝炎、肝硬変、肝がんと進んでいったのです。当時、C型肝炎はまだ発見されておらず、あと数年あれば治療法が分かったのに……。病理解剖したら、抗がん剤がよく効いたのか、がんはほとんど残っていませんでした」

 死因は、肝機能低下による肝硬変であった。

 ちなみに、28年前に夫人から“原本”を託された東大の森亘元総長も、4年前に肺炎のため86歳で亡くなった。今回、親族にその「所在」を問い合わせたところ、遺品の中からは見つからなかったという。

故・浦野順文教授の妻・純子さん

■「堂々とお受けになるはずだ」

 あらためて夫人が言う。

「検査結果の会見で侍医団ががんを公表しなかったことについて、主人はずっとわだかまりがある様子でした。高木先生とも、告知をめぐって意見が対立したかもしれません。それでも先生は、半蔵門病院まで陛下の銀杯を持ってお見舞いにきて下さいました」

 とのことで、

「主人は日頃から陛下を尊崇しており、病理検査を任されたことをとても喜んでいました。だからこそ『もしがんだとお伝えしても、科学者である陛下は、その事実を怯(ひる)まれずに堂々とお受けになるはずだ』と考えていたのです」

 死して聞き届けられたその思い。昭和の終末に、確(しか)と刻まれた「史実」である。

「特集 一挙公開! 『昭和天皇』へのがん告知を主張した『病理医師』の『カルテ遺書』」より

週刊新潮 2016年3月3日号掲載

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