「日本の植民地支配」を懐かしむ人たち 南洋パラオの真実

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 先日、天皇皇后両陛下が訪れたことでも話題になったパラオ諸島を含む南洋の島々は、戦前、大日本帝国の統治下にあった。当然、戦争では米軍の攻撃を受けて甚大な被害を受けた。そして、戦後はアメリカの影響下で植民地にはなかったはずの「自由」を得たことになっている。

 ところが、島で老人たちに話を聞くと、「日本時代が一番良かった」と語る人が多くいるのだという。

日本を愛した植民地』の著者、荒井利子さんは数回にわたってパラオを訪れ、当時を知る多くの古老たちに、話を聞いた。同書に紹介されている島民の話を紹介してみよう(以下、「 」内引用は同書より。なお、厳密にはパラオは「委任統治領」であるが、同書では条件付きで「植民地」として扱っている)。

■日本時代は楽しかった

 70代の女性はこう語る。

「日本時代は楽しい時代だったのよ。私は本当に感謝してますよ。私が生まれたのは日本時代の真っ盛りでしたからねえ。昔は楽な生活だったのよ。食べ物にも困らないしね。日本の時代は本当にいい時代だったのよ。
 ドイツの占領時代に来たドイツ人はたった1人ね。軍人だと思うわ。私たちを見張りに来てたのよ。日本になったらみんなここに生活に来たでしょ。それで日本時代が本当にすばらしい時代になったの。それがドイツと日本の違いなのよ。
 日本人は、三十何年もここにいたから。パラオの人と仲良くしていたのよ」

■今でも文通をしている

 日本人の設置した役所(南洋庁)でボーイとして働いていたという男性(80代)の話。

「昭和12年から昭和14年まで南洋庁の本庁にいました。農林課で、お茶ボーイとして働いていました。課は、秘書課と文書課と地方課と財務課とそれから水産課と交通課、商工課。その各課にひとりお茶ボーイがいました。日本人でお茶ボーイとして働いていた人もいます。女の人でもお茶ボーイと呼ばれていました。
 私のいたころは、北島謙次郎という人が南洋庁長官でした。この人の下はみんな日本のいい大学出たエリートばかりでした。九州帝大、東京帝大や農林学校を出ている人もいました。普通の大学も早稲田、慶応とかたくさんたくさんいました。そういう人たちが僕のこと、とてもかわいがってくれました。
 私はもう80になりますが、農林課の人とは今でも文通しています。60年も70年も文通しています。その人は仙台にいます。土木課の人とも文通しています。あとはみんな死んじゃいました」

■学校での教育は

 日本人と共に学校に通っていた思い出を語る80代の男性の話。

「先生たちには、日本の子どもも現地の子どもも、同じように扱いたいということがありました。どっちも日本人にしたいという感じがあった。
 朝礼では、日本に向かってお辞儀しました。カレンダーには紀元節、天長説、お正月とかちゃんと書いてあった。その日が来ると、日本の日の丸の旗を揚げて式をしました。それが終わると、パン2個ずつ子どもたちに配って村に帰した。紅白の丸い小さなパンだった。日本人と同じように扱ってくれていた」

 学校では、日本本国と同様に、天皇崇拝教育を施していたのだが、それにもあまり違和感はなかったようだ。父親が日本人、母親がパラオ人という男性の話。

「天皇は生きた神様だ。そういう教えがありました。だから毎朝学校に集まって、宮城に向かって下の方向いて頭を下げて、『天皇陛下バンザイ』『私たちは天皇陛下の赤子であります。私は立派な日本人になります』って言っていました。
 時が来たら日本人になると思っていた。あのまま太平洋戦争がなければ自分は日本人になると思っていました」

 もちろん、当事者たちの感情は別として、こうした統治は現在の目では許されるものではないだろう。しかし、それにしても日本が統治した他の地域と比べても、島民たちの親日感情は強い。彼らは今でも日本時代を懐かしみ、好意を持ってくれている。

 それはなぜか。

 理由は1つではない。島の人たちが証言するように、他の統治者とは異なり、日本人が島民に溶け込み、できるだけ平等な扱いをしようとしたことはその中でも大きな要因である。なかでも、沖縄の人たちが果たした役割が大きかったことを同書では指摘している。

 戦後、アメリカが支配するようになってからは、日本時代よりも「自由」になったのだが、それが必ずしも幸福につながらなかったことも島民たちは率直に語っている。『日本を愛した植民地』は、植民地支配について新しい視点を提示する力作である。

デイリー新潮編集部