陛下にはがん告知はされていなかった〈がん告知を主張した医師の遺書 初公開(2)〉

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昭和天皇

 昭和天皇の「病理組織検査」を担当した東大医学部・浦野順文教授が遺した「遺書カルテ」ともいうべき文書には、検査の所見と併せ、教授自身の思いも綴られていた。昭和62年9月24日に行われた検査については〈助教授が問題の標本を持って、私のところに来た。標本はそれほど難しくなく、癌ということが診断できたので、診断できたという点でほっとした。〉とある。

 ***

 がんが明らかになった後は、検査結果についての評価へと移っていく。

〈金曜日の午前中、森総長(注・森亘東大総長)が私の部屋に来られたので、はじめの標本をお見せした。診断はやはり癌であった〉

〈金曜日の夕方、病理部に赴いたところ、たまたま講師が来室し、これらの標本を見せた。十二指腸原発でもよいのではないかとの意見を述べたが、講師も内視鏡的には十二指腸原発の癌だと思うとの見解であった。しかし、生検標本は小さな切片であるし、しかも癌の端にあたる部分しかみていないので、原発巣を確定するのは少し冒険と考え、十二指腸粘膜を浸潤する癌との診断が妥当と判断した〉

故・浦野順文教授

 浦野教授は研究室の助教授らの意見も聞いた上で、最終診断書の仕上げにかかった。その一方、

〈9月23日頃よりマスコミの取材陣が押し掛けて来て、病理診断を知りたがった。マスコミに対しては、「病名の告知というのは、臨床医が患者にするのであって、病理医が患者にするのではない。」という立場に病理はあり、主治医にのみ病理診断を報告するのが原則であるので、外部に対しては一切公表しない。病理診断は森岡教授(注・東大医学部第一外科の森岡恭彦教授。執刀医)にすると答えた〉

〈しかし、森総長と相談し、外科側、高木(顯)侍医長とも一度会って、外部に対する統一見解を作る必要があると考えたので、25日の夕刻、総長室において、高木、森岡、森、浦野が会合した。この時にはすでに標本が出来上がり、病理診断も作成してあった。(中略)病理側より臨床側へ診断書を手渡す前に、森総長と私が診断書の責任者として署名した。診断書は3通作成し、1通は高木侍医長に、残りは森総長と浦野が1通ずつ持っている〉

■侍医長からの発表は……

 そしてこの場で、重大な「方針」が共有された。

〈臨床側は陛下御自身並びに周囲に対する影響を考慮して、当面、慢性膵炎という診断名のもとにことを進めたい旨の希望を表明した。また、採取、検討された組織片についても、既に膵と発表されていることを理由に、今はその線にそって取り扱いを行なうように希望された。これに対し、病理側は、誠に恐れ多いことながら、陛下御崩御の後には、当然全ての真実が明らかにされるという理解のもとに、これらの点に同意した〉

 元来、高木侍医長はがん告知については“百害あって一利なし”というのが持論であった。浦野教授も、ひとまずは同意せざるを得なかったのだ。

 果たして、29日に行われた検査結果に関する会見では、術後のそれを踏襲する形で“瘢痕(はんこん)組織(注・傷跡)であり、がん組織を認めず、慢性膵炎の像と考えられる”との発表が、侍医長からなされたのである。

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(3)へつづく

「特集 一挙公開! 『昭和天皇』へのがん告知を主張した『病理医師』の『カルテ遺書』」より

週刊新潮 2016年3月3日号掲載

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