高まる日本のゴルフ熱 「ボール転売」や「ゴルフ場開発」が行われ、文士たちもクラブを握った〈日本ゴルフの60年史(3)〉

スポーツ週刊新潮 2016年3月24日号掲載

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 戦後、日本人に返還され始めた「川奈ホテル」のホールや「程ヶ谷CC」では、小佐野賢治や中川喜次郎ら経済人たちがプレーに興じた。若き日のソニー創業者・井深大と副社長の盛田昭夫がゴルフを始めたのは、同社を株式上場した昭和三十三年のこと。打球が曲がるボールをレントゲン透視し、ボール製造会社であるブリヂストンタイヤ社長・石橋正二郎に「おたくのボールの中には芯がズレたものがある」と進言。石橋は「開発費として一千万円出すから、いいボールを作れ」と部下に命じた。

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 ボールと言えば、六十年前のゴルフ用品がいかに高価な贅沢品であったかについても触れておきたい。

 この頃の川奈のキャディフィは二バッグ(二人客)で一日二百五十円。それに比べ、当時のボールの値段は「ダンロップ65」が一個三百円もした。お菓子のように黒のセロハン紙に包まれていた。

 プレーヤーはこの貴重なボールを、まるでミカンの皮をむくようにセロハン紙を丁寧に剥がして取り出す。ちなみにその頃の川奈の社員の月給は三千円で、研修生は五千円。キャディマスターは一万円で、程ヶ谷CCより千円程安いローカル賃金だった。

 その一方で、川奈で販売されるゴルフ用品は、夏用のゴルフシャツが二千円、シューズが五千円、キャディバッグ五千円、冬もののセーターに至っては、一万五千円と非常に高価だった。

 このためキャディたちは、川奈の大島コース12番の谷とか富士の6番左崖などに落ちているボールを見つけると、夕方こっそりと“現場”に戻り、斜面を下りて拾い上げ、売ったり、使ったりした。

 そのうちに「ボール拾い禁止令」が出る。するとチャンスとばかりに、富戸や川奈から若者が船で近づき、ボール拾いにやって来る。彼らはボールを東京の業者に新品の半値で売っていた。それが分かると、今度はキャディ少年たちは、このボール拾いの若者を追い払うため、海ぎわに番小屋を立てて、バケツを叩いて追い払ったという。

 なお当時、クラブとボールは殆どが輸入品である。ウッドは三本セットで四万五千円、アイアン九本で五万円もした。一式揃えると十万円近くする。庶民の手が届くはずもない。クラブ修理屋の中には米兵から五万円で買い、ペンキを塗り直して三十万円で売っていた者もいた。先に述べたように、サラリーマンの大卒初任給が七千円の頃だから、ゴルフが出来たのは社長クラスだけだった。それだけに戦後の成金社長たちは、クラブを大事にした。当時最高の人気を誇ったクラブはウッドがマグレガー・ターニー、アイアンが、ボビー・ジョーンズが愛用したスポルディングだった。(1)の冒頭で紹介したように、こうした品々が床の間に大切に飾られたわけである。

■ゴルフを始めた文化人たち

 この頃、文化人の中でゴルフを再開したのは、主に鎌倉文士といわれる川端康成、永井龍男、久米正雄、大佛次郎、小林秀雄たちである。川奈が大倉家に戻った直後、川端康成は文藝春秋の専務でゴルフ作家の摂津茂和と一緒に川奈へ出かけている。二人は弁当持参。大島コースのグリーンの近くで、大島を眺めながら弁当を食べ、それからラウンドを続けた。

 この他に、仕事が夜型の丹羽文雄が昭和三十年に、ゴルフを始めた。吉川英治がその二年前に始めていて、東京在住の作家たちもプレーするようになった。丹羽は自宅の庭にグリーンまで造った。

■「地揚げ屋」誕生

 生活に余裕がある層でのこととはいえ、ゴルフ熱はかように高まり、その余熱が徐々に広がりを見せようとしていた。もっとも、ゴルフ場は全国で六十五コースしかない。ゴルフ人口もまだ十万人程度。プロは皆、兵隊帰りの侍たちだった。

 しかし昭和三十一年、英国のウェントワースで、国別対抗のゴルフ団体戦、カナダカップ(現・W杯)について、「次回は日本開催」と決定すると、戦後成金の経営者たちの間でゴルフ場造りの気運が高まる。

 問題は、資金面と土地買収で目途が立たないことだった。そこでヒントになったのが川奈に出資した法人会員制の預託金制度。「無利息、退会迄の預託金制度」で会員を募集する方法を思い立つ。しかし残念ながら、用地の確保ルートがない。

 土地を見つけた事業者は、先ずその土地の市町村長を訪ねて、ゴルフ場とは言わず「大学を建てたい」との口実で相談し、山林の持主を捜した。ところが後日、ゴルフ場の話をすると、当然難色を示され、必ず市町村の有力議員が間に入った。

 それからは議員が用地の手配に動く。当時は最低十五万坪の用地を必要とした。数軒の農家の山林が確保不能となると、その時点で事業主は手を引く。

 その頃のゴルフ場用地は坪百円が相場だった。山林の持主も、使い道のない山林なら坪百円でも納得し、応じた。しかしゴルフ場に必要な広大な用地は、なかなかまとまらず、事業主は断念せざるを得なくなる。それでも票になるから、顔役の議員たちは諦めない。なかには他県の山林まで見て回り、事業者に持ちかける者もいる。これがのちの「地揚げ業」という世界初の新事業の始まりである。その後来る「日本列島改造」向けの「地揚げ屋」の萌芽は、実は今から約六十年前に、ゴルフ場開発において、すでに発芽しようとしていたのである。

(文中敬称略)

「特別読物 『小佐野賢治』『井深大』『小林秀雄』も夢中だった 日本ゴルフの60年史――早瀬利之(作家・ゴルフ評論家)」より

早瀬利之(はやせ・としゆき)
昭和15年、長崎県生まれ。鹿児島大卒。雑誌記者、「アサヒゴルフ」編集長を経て、作家活動に専念。著書に『偉人たちのゴルフ』『石原莞爾と二・二六事件』などがある。