「113番目の元素」で息を吹き返す理研に「オボカタ」の初夢

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 オボカタ問題で味噌がついた理化学研究所には、文字通り盆と正月が一緒に来たような朗報だった。なにしろ大晦日に、理研の研究チームが合成した新元素が、原子番号113番の元素と認定されたのだ。はて、例の女史の心中や、いかに。

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オボカタ女史、さぞかし初夢にうなされたのではあるまいか

 それが大晦日だったにもかかわらず、研究チームを率いた九州大教授の森田浩介氏(58)らは、即座に会見を開いた。くだんの元素について、理研の発見と認めて命名権を与えるという通知を、国際学会から受けてのことだが、森田氏の満面の笑みが、どれほどの吉報であるかを物語っていた。

「私のところにも通知が届き、朝5時に森田先生に電話しました。先生は非常に興奮しておられました」

 と語るのは、当の国際学会である国際純正・応用化学連合(IUPAC)の認定委員を務める東大名誉教授の山崎敏光氏である。

「2012年春から3年ほどかけて審査し、私を含む5人の認定委員が討議してきた結果、113番目の元素は、全会一致で理研の研究チームに命名権が与えられることになりました」

 ここで、元素なるものについて、サイエンスライターの丸山篤史氏の講義を受けておきたい。

「元素はこの世の物質を構成するモトで、喩えて言えば、レゴブロックのピース。元素の中心には、その周りを電子が回っている原子核があり、原子核は陽子と中性子で構成されている。原子番号は陽子の数です。森田先生が命名権を獲得した元素は、113個の陽子を持つわけです」

 では、具体的にはどうやって合成されたのか。

「加速器を使い、原子番号30の亜鉛を83のビスマスにぶつけて合成し、113の陽子を持つ元素を作り出した。地球上に存在する元素は92番目のウランまでで、以降はとても不安定ですぐ壊れてしまいます」(同)

 113番目の元素は、米露の研究チームも発見したと主張していた。争いに日本が勝ったのは、その不安定さを逆手に取ったからだという。山崎氏が説く。

「不安定な元素では、アルファ線を放出するアルファ崩壊が起き、アルファ線は陽子2個、中性子2個でできているため、崩壊が起きると原子番号が2つ小さくなる。アルファ崩壊を繰り返して原子番号が小さくなった元素が、既知の原子核になっていれば、崩壊前の元素の原子番号が特定できます。理研のものは、この過程を辿ることができ、米露のものはできなかった」

 こうして、アジアで初めて周期表の一角を占有するにいたったのである。

■締め切り後に3個めが

「山崎先生から電話をいただいたときは当然寝ていて、まさか大晦日に通知がくるとは思わないから、驚きました。パソコンを開くとIUPACからのメールが届いていて、福岡から朝の飛行機で理研本部に向かうと、理研は上を下への大騒ぎになっていました」

 こう語るのは、発見したご当人の森田氏である。

「当初は04、05年に合成に成功した実験結果2つをもって、命名の権利があると申請しましたが、2個では足りないと退けられた。12年5月末に申請の呼びかけがあったときは、まだ3個めがなかったものの、新たな根拠を付与して申請。すると、締め切り後の8月に3個めの合成ができ、大慌てで論文を書き、新元素発見の認定材料に使ってくださいと手紙を添えて送ったのです。祈るような気持ちでした。84年に新元素を探索するメンバーとして採用されて30年、理研は自由にやらせてくれましたが、10年以上やって結果が出なかったのだから、普通の組織ならクビになるのでは」

 これが理研にとっていかに悲願であったか。

「今回の研究の舞台、理研の仁科加速器研究センターは、1937年に研究を始めた、国内の加速器研究の草分けです」(丸山氏)

 だが、そのわりには成果を出すのに時間がかかったのは、山崎氏によれば、

「92番目のウランより先の元素は、みな放射性物質。日本は戦後、GHQによって放射能の取り扱いが禁じられたため、かなり遅れての出発だったのです」

 とまれ、これで息を吹き返せる理研。科学ジャーナリストの緑慎也氏が言う。

「小保方さんの問題で、理研は大きなダメージを受けた。今回の発見は分野が異なるとはいえ、傷ついたイメージを払拭するきっかけにしたいことでしょう」

 新聞報道は元旦。自分を切り捨てた理研に恨み骨髄と思しきオボカタ女史、さぞかし初夢にうなされたのではあるまいか。

「ワイド特集 剣が峰にて一陽来復」より

週刊新潮 2016年1月14日迎春増大号掲載

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