【豊臣兄弟!】「殿下こそが大明神」…秀吉を持ち上げた山田涼介の秀次、同時代の宣教師が記した「意外な素顔」

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おぞましい逸話は後世の史料だけに

 もっとも、秀次について史料をひもとくと悪評がかまびすしい。たとえば『信長公記』の著者である太田牛一が著した『大かうさまくんきのうち』には、秀長の死後、関白になった秀次について、「殺生関白」だという落書きがされたことを取り上げられ、次のように書かれている。

「正親町院が崩御されたのに、秀次公は鷹狩りをなさった。仏法の作法も政治の道理も正しくなく、これでは彼の政権も長くは続かないだろうと、京都の民衆はあざ笑って落書きをした。亡くなった院の手向けに行う狩りだから、摂政関白ではなく殺生関白だ、と高札に書きつけ、立てさせたのだ」(筆者訳)

 いや、この逸話など、かなり手ぬるいほうで、「殺生関白」という烙印を押された秀次の所業として、次のようなことが書き連ねられている。いわく、女人も殺生も禁止されている比叡山に女房たちを連れて入山した挙げ句、鹿などを狩った。いわく、稽古と称して鉄砲や弓で通行人を射貫いた。いわく、刀を試すために辻斬りをした。いわく、北野天満宮で盲人の腕を切り落とした。いわく、妊婦の腹を裂いて胎児をのぞき見た。

 しかも、こうしたおぞましい逸話は、小瀬甫庵の『太閤記』をはじめ、多くの史書や読み物にも記されている。そうである以上、秀次とはろくでもない人物だった、と捉えられてしまうのも、致し方ない。

 だが、これらの記述には大きな問題がある。最初にこうした逸話を記した『大かうさまくんきのうち』が書かれたのは慶長15年(1610)前後で、秀次が死んで15年、秀吉が死んで12年ほど経過している。ましてや『太閤記』などはみな、それ以後の著作で、同時代の史料に「殺生関白」としての逸話など、どこにも書かれていないのである。

悪評がすべて秀次に押しつけられた

 周知のとおり、秀次は文禄4年(1595)7月、秀吉と対立した末に高野山で切腹した。原因は秀吉の嫡男として拾(のちの秀頼)が生まれたことで、秀吉が招いた失態だったといえる。しかし、現職の関白の切腹など前代未聞で、政権を揺るがしかねない大スキャンダルだったため、秀吉は秀次が謀反の末に切腹したことにし、妻子三十数名を惨殺した。また、秀次の政庁になっていた聚楽第も跡形もなく破壊した。

 要は、秀吉は秀次という存在自体を、まるでこの世に存在しなかったかのように抹殺しようとしたのである。

 だが、秀吉の死後、まもなくして豊臣政権が崩壊すると、今度は徳川家が秀吉の痕跡をできるだけ消そうとした。とくに慶長20年(1615)の大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼすと、秀吉が得ていた豊国乃大明神の神号を剥奪して神社も破壊。大坂城自体、いっさい埋め尽くしてあらたに築き直した。とはいっても、家康が秀吉に臣従していたという史実自体を消すのは困難だった。そこで、徳川家の矛先も秀次に向かった。

 つまり、徳川家としては秀吉も否定したいが、あまりに碌でもない人物に家康が臣従していたとなると、それはそれで都合が悪い。そこで悪評はすべて秀次に押しつけた、と考えられるのである。

 では、同時代の秀次評はなぜ残されていないか。それは当然で、聚楽第など秀次が関わった城や屋敷はみな破壊されるほど、その痕跡が抹殺されたのだ。彼について書かれた史料が消されなかったわけがない。だが、秀吉がそう意図したところで、消すことができない記録もあった。宣教師が書いた記録である。

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