【豊臣兄弟!】戦国武士は全然「粗食」ではなかった…「腹が減っては戦ができぬ」を支えた1日6合の米と驚きの“戦めし”

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戦国時代の戦いに腹ごしらえは不可欠

 天正14年(1586)、ついに徳川家康(松下洸平)を臣従させた羽柴秀吉(池松壮亮)は、翌年、九州征伐に乗り出し、薩摩(鹿児島県西半部)の島津家を従わせた。NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の第42回「北野大茶湯」(11月1日放送)。

 秀吉の命令で動員された軍勢は、当時としては過去最大規模の約20万~25万にもおよんだ。そのころの日本の人口は1000万~1200万人程度と推定されており、動員された軍勢の人口比が途方もないことに驚かされる。また、踏破した距離も半端ない。各部隊によって移動距離は異なるが、秀吉本隊の場合、大坂城(大阪市中央区)から薩摩の泰平寺(薩摩川内市)までの往復は、約1600~1700キロにもおよんだ。

 いうまでもないが兵力の大半は、重い具足を身にまとってこの距離を歩いたのである。本能寺の変後、備中高松城(岡山市北区)から急いで上京した「中国大返し」のような強行軍とは異なるが、各国に圧倒的な軍事力を見せつけるデモンストレーションを兼ねて、1日平均15~20キロ程度の速度で進軍した。かなりの体力が必要だったに違いない。

 日本人は昔から粗食で、それが健康と長寿の秘訣である、と信じられているフシがある。しかし、相当な腹ごしらえをしていなければ、これほど長距離を移動し、その間に激しい戦闘を繰り広げることなど困難だったのではないだろうか。

 あるいは、秀吉は九州征伐の4年前、柴田勝家と戦った賤ヶ岳の戦いの際、大将の留守を突いた佐久間盛政による急襲の報せを受けると、美濃(岐阜県南部)の大垣から近江(滋賀県)の木之本(長浜市)まで、約52キロの距離を5時間ほどで駆け抜けて戻った。この移動も、かなりしっかり食べていなければ不可能だったのではないだろうか。

ビタミンB1とミネラルが豊富な黒米を食べていた

 白米と味噌汁、お浸しといった素朴な和食を食べていれば、肥満にならず、高血圧や心臓病、脳梗塞などのリスクを避けられるという言説がある。だが、そういう食事で、上に記したような激しい移動や戦闘を乗り切れるだろうか。実際、いま挙げたような食事が健康的だという科学的な裏づけはなく、むしろ、たんぱく質や脂質が不足し、栄養バランスに欠けるという指摘もある。

 では、戦国時代の武士たちは、なにを食べていたのだろうか。結論を先にいえば、栄養はかなりしっかり摂っていたようだ。

 食事は朝と夕の1日2食が基本で、回数は今日より少なかった。日本で1日3食の習慣が定着したのは江戸時代の中期以降である。むろん主食は米だが、戦国時代の武士が食べていたのは白米ではなく、主として精米しきれておらず玄米に近い「黒米」だった。そこに麦や粟などほかの穀物を混ぜることもあり、バリエーションは豊富だった。白米ではなかったことがポイントで、これが結果として、栄養バランスを維持するうえで有効だったと考えられている。

 黒米が玄米とほぼ同じだと想定すると、ビタミンB1は白米の約5~8倍、食物繊維は約6倍ふくまれるなど、ビタミンやミネラルは黒米のほうがずっと豊富だった。とくにビタミンB群は、糖質や脂質をエネルギーに変えてくれるので、約10~20キロもの重さの具足を身に着けて動き回る戦国の武士にとって、黒米は理想的だったと思われる。

 日清戦争や日露戦争では、多くの兵士が銃弾を浴びる以前に脚気によって命を落とした。その数は日清戦争で約4000人、日露戦争では陸軍だけで約2万7000~3万人におよんだ。当時は脚気を感染症ととらえる向きもあったが、いまではビタミンB1の不足によって発症するとわかっている。この当時の軍隊で主食だった白米は、精米の過程でビタミンB1を豊富にふくむ胚芽や糠が除去されているので、脚気を発症するリスクが高まった――と考えられている。

 一方、黒米を食べていた戦国時代の武士には、脚気を発症するリスクがほとんどなかったことになる。

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