「あれ乗っ取っちゃえ」 大物財界人のアドバイスを受けた石原慎太郎が取った行動
9月30日、東京・渋谷の西武渋谷店の閉店は各局のニュース番組で大きく扱われた。どこも伝え方は大体同じで、「流行・文化の発信地」がまた一つ消えた、という趣旨である。
渋谷が若者文化の発信地というのはいまや定説だが、それはあくまでも高度成長期以降の話。
作家で東京都知事も務めた石原慎太郎さんが昭和の思い出を語った著書『昭和の風雲児』には、現代の人には信じられないような渋谷が登場する。閑散とした街を見て、石原さんは大胆なアイデアを思いつき、実行に移そうとした。その話は財界人も巻き込んで、意外な形で実を結んでいく――(以下、『昭和の風雲児』より抜粋・引用)
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格下だった渋谷
そんな頃(注・1960年前後)に、題名は何だか忘れたが、ヒットしている映画を観に銀座まで行ったところ、超満員で入れないということがあった。聞くと、次の回もすでに指定席は売り切れていると言う。しかし、翌日には旅行に行くこともありどうしてもその日に見ておきたかった。
そこで新聞の映画欄で調べると、渋谷パンテオンで同じものを上映していることがわかった。映画館に電話すると、空席があるという。タクシーで飛んでいくと、たしかに銀座では満員の映画が、七分程度の入りでしかない。
今の人には信じられないかもしれないが、当時の渋谷は銀座や有楽町と比べると、閑散とした街だった。それでも銀座に次ぐ繁華街で、新宿や池袋などはもっと場末であったが。
それにしてもひどい状態で、その場でふと思いついたのは、こんな具合ならばこの映画館を劇場にしてしまえばいいのではないか、ということだった。幸い、パンテオンの持ち主である東急グループの五島昇(ごとうのぼる)社長とは親交があった。海でのトローリングやダイビング、山でのハンティングといった趣味を通じて、かなり濃い付き合いをしていたのだ。
もっとも、映画館を劇場にするにはかなりの金が必要になる。しかし、五島さんにうまく話せば何とかなるのではないかと思い、後日一緒にトローリングに出かけたときに機を見計らって話を切り出した。
「この前、パンテオンに行ってみましたが、あまり客も入っていなかったし、渋谷も人がいないようですから、あれを僕にくださいよ」
「何するんだ、石原君」
「新劇の劇場にろくなもんがないんで、あそこに大きな劇場作ったら、新劇の聖地になりますよ。あそこには東京で唯一のプラネタリウムもあるし、向かいの東急百貨店には東横劇場もあるし、それとはまったく別のレパートリーをやる新劇の劇場を作ったら、東急グループ全体の文化水準も上がりますよ」
「それは面白いな」
「東急にとってもいいんじゃないですか」
「うん、それいいな。よし、君やれよ。あんな映画館どうだっていいんだから」
しめたと思い、
「あまり改装費をかけることはありませんし。要するに、常時決まった客が日本中から集まればいいでしょ。会社の宣伝にもなりますし」
こうして話をまとめてしまった。
「乗っ取っちゃえ」
ところがそれから一週間もたたぬうちに、五島さんから電話がかかってきた。
「この前の渋谷の話、もっといい話があるんだよ」
何のことか聞いてみると、
「大阪の日本生命っていう日本一の生命保険会社が、今度、東京本社を作る。べらぼうに金を持っていて、金は余っているから、利益社会還元で劇場を日比谷に作るっていうんだ。日比谷のほうが渋谷よりいいだろう。あれ乗っ取っちゃえ」
日本生命の弘世現(ひろせげん)社長から劇場を作るにあたって、五島さんに相談があったのだという。弘世さんはなぜか既存の興行会社を嫌っており、東横劇場を持っているとはいえ、劇場に関してはほとんど素人に近い五島さんに相談してきたというのだ。
しかし、乗っ取れといわれてもどうするのかわからないので、どうすればいいのか聞いてみると、
「彼らに劇場なんかやれないから、俺に社長を頼んでくることになる。そのときに君を重役にしてやるから、勝手にやればいいじゃないか」
「なるほど、それはありがたいです」
「ただし、相手は金持ちとはいえ、天下の保険会社だから、話をきちんと持ちかけないといけない。そのための基本計画が必要だぞ。しかしまあ相手も俺に話を持ちかけてくるくらいの素人なんだから、要は最初に見せる作文だよ、作文」
これを聞いてその気になった私は、浅利(慶太)さんに話を持ちかけ、さらに彼のスタッフで舞台照明ではすでに権威となっていた吉井澄雄さん、舞台装置の金森馨さんらと箱根で三日ほど合宿をして「作文」の案を練った。
日比谷に新しく誕生する劇場は、国内にはまだほとんどないオペラハウスを兼ねた万能の劇場であるべきで、誕生すれば興行的にも可能性があり、しかも企業の宣伝にもなる、また日比谷は立地場所として非常に劇場に向いている、うんぬんと書いた作文というかレポートはなかなかの出来栄えだったと思う。現に弘世さんは、そのレポートを読んですぐに連絡をしてきたのだから。
呼び出されて出向くと、弘世さんが、
「石原さん、大変いい資料をいただきました。私は何せ保険屋ですから、石橋を叩いても渡らぬ種族ですが、あれを読んだらすっかりその気にさせられましたよ」
そして、弘世さんは費用として四十五億円を用意すると言った。今の価値にすれば五百億円にはなるだろうか。こうして日生劇場の誕生へ向けてことは動き出した。
劇場運営のための「株式会社日生劇場」には、五島さんが社長として就任した。実は当初、弘世さんは、私に常勤の取締役になるよう求めてきた。
「こうなったら、君が常勤の取締役になって責任をとってやれ」
しかし、当時の私は作家として多忙を極めていた。
「とんでもありません。私は流行作家なんだから、劇場の支配人なんかできっこないでしょう」
「じゃあ誰がやるんだ」
「浅利慶太という私が信用している男がいます。彼なら適任ですよ」
こうして浅利さんが常勤の取締役に、私は非常勤の取締役となって手伝うことになったのである。
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このあと紆余曲折あったものの、1963年、日生劇場は誕生する。ベルリン・ドイツ・オペラを呼ぶこけら落としは、天皇陛下、西ドイツ大統領が来賓という華々しいものとなった。
その頃の石原さんは人気者とはいえ政治家ではなく、30歳そこそこの作家である。その思いつきがあっという間に大物財界人を巻き込み、形となっていった。石原さんのアイデアの魅力、人脈や実行力に加え、日本全体がまだ青春期だったからこそのスピード感、ダイナミズムも手伝ったのだろうか。石原さんは次のようにこの話を締めくくっている。
「もとはといえば、私が渋谷の映画館で思いついたことが、いつの間にか日生劇場という大きな形として具現化してしまった。時代の状況といったこともあるのだが、そういうことが実現するには、やはりトップ同士の閃きやつながりといったものが必要なのだろう」
石原慎太郎さんの思想に新たな光を当てた考察は、新潮QUE掲載の記事「石原慎太郎に見る『真のエゴイズム』の価値」で読むことができる。











