ミッドウェイ海戦の2カ月前、すでに日本海軍が犯していた「決定的な過ち」とは?
太平洋戦争において、ミッドウェイ海戦での敗北をきっかけに、日本が必敗の形勢に陥ったことはよく知られている。しかし、実はすでにその2か月前に、日本海軍が「ミッドウェイのひな形」ともいうべき決定的な過ちを犯していたことは、ほとんど知られていない。
軍事史家の大木毅氏の新刊『海軍士官たちの太平洋戦争』(新潮選書)から一部を再編集して、日本海軍の知られざる大失態を紹介する。
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「忘れられた艦隊」の戦史
太平洋戦争におけるイギリス海軍の役割については、必ずしも注目されているとはいえない。1941年12月のマレー沖海戦で一方の主役となったことを除けば、緒戦の斬られ役、中盤以降の脇役といったところで、ビルマ(現ミャンマー)への進攻支援に大きな役割を果たし、沖縄攻略にも参加しているにもかかわらず、その事績が人口に膾炙することは少なかった。
日本はもちろん、英本国においても、それは同様であった。例外的に、イギリスの海軍軍人で退役後文筆家に転じたジョン・ウィントンによる英太平洋艦隊の戦史が1969年に刊行されていたが、そのタイトルが『忘れられた艦隊』であったことは象徴的であろう。
しかし、近年になって、英東洋艦隊、さらには英太平洋艦隊の研究は急速に進み、さまざまな興味深い事実があきらかにされている。そのなかで、あらためて評価が高くなっている人物に、ジェイムズ・ファウンズ・サマヴィル元帥がいる。
ここではサマヴィルの戦歴、とくに1942年のインド洋における作戦指揮に焦点を当てたい。というのは、来襲した日本機動部隊に対し、サマヴィルは、同年のミッドウェイ海戦に先んじて、それと酷似した状況を作為し、日本側にきわどい一瞬を味わわせているからだ。この問題、実は、すでに1988年に千早正隆(元海軍中佐)によって、あるシンポジウムで指摘されていたのだけれども、およそ40年近くを経て、いよいよクローズアップされているのである。
読まれていたインド洋作戦
サマヴィルが海軍本部から与えられた任務は、マレー沖海戦の敗北とイギリスの極東における重要拠点であるシンガポールの失陥以後の苦境にあって、なおインド洋の海上交通路を維持し、艦隊を失うことなく保全して、日本側に対抗措置を強いるというものであった。この、いわゆる「現存艦隊(フリート・イン・ビーイング)」の戦略ゆえに、劣勢の敵に対するそれ以外は攻撃を禁じると、サマヴィルは言い渡されていたのである。
サマヴィルが、1942年3月26日に戦艦「ウォースパイト」に将旗を掲げてから2日後、「極東合同局(ファー・イースト・コンバインド・ビューロー)」(FECB。イギリスの通信諜報機関「政府暗号学校」の支局)の報告書が届いた。
そこには、日本軍の企図がほぼ正確に描きだされていた。FECBは、通信解析、方位測定、呼出符号の特定、さらには暗号解読によって、3月中旬から、日本海軍がインド洋作戦に着手することを察知していたのである(ジョン・ウィントン『米国諜報文書ウルトラin theパシフィック』/Charles Stephenson, The Eastern Fleet and the Indian Ocean 1942-1944)。
「空母2隻、大型の6インチ砲搭載巡洋艦2隻、おそらくはさらに8インチ砲搭載巡洋艦数隻、多数の駆逐艦が投入されるものと推定される。複数の金剛(こんごう)級戦艦に支援される可能性あり」。
この艦隊はセレベス(現インドネシア領スラウェシ)島のスターリング湾に集結、地点符号「DG」、すなわちセイロンを攻撃するものと予測されていた(Stephenson)。のちのミッドウェイ海戦同様、日本側は手の内を読まれていたのであった。
■英艦発見の報
3月31日、サマヴィルは、二つに分けた麾下の艦隊(戦艦「ウォースパイト」ならびに空母2隻基幹のA部隊と旧式戦艦を中心とするB部隊)をセイロン南方160キロ付近の海域に出動、哨戒に当たらせた。セイロンの防空部隊も警戒態勢に入り、日本艦隊が来襲すると思われる南東海面を集中的に索敵する。
4月4日、セイロンに配備されていたカナダ空軍のPBYカタリナ飛行艇が、日本機動部隊を発見した。南雲司令長官は、攻撃前日の薄暮に敵哨戒圏に突入、夜陰にまぎれて目標に接近、翌朝に空襲をかけるとの定石を踏まなかったのだ。
日本機動部隊は、奇襲が見込めなくなったことも意に介さず、5日早朝、コロンボ強襲にかかる。第1次攻撃隊は、陸上基地から飛び立った英軍機を多数撃墜しつつ、攻撃を実行した。だが、攻撃隊長の淵田美津雄中佐は効果不充分と判断し、第2次攻撃を準備されたいと旗艦「赤城」に打電する。
このとき、2か月後のミッドウェイ海戦に酷似した状況が生じた。対艦船向けの爆弾と魚雷を抱いていた第2次攻撃隊が、淵田の意見具申を受けて、陸上攻撃用の兵装転換に取りかかっているさなかに、索敵機から英艦(コロンボを出航、A部隊との合流を命じられていた「ドーセットシャー」と「コーンウォール」)発見の報が飛び込んできたのである。
危険な兵装転換
南雲司令長官は急ぎ、兵装を対艦船用に再転換するよう命じた。つまり、対艦から対地、続いて対艦と、めまぐるしく兵装が変えられたのだ。この間、空母の格納庫や飛行甲板には爆弾や魚雷が出され、危険な状態になる。
もし、この兵装転換中に空襲され、命中弾を受ければ、日本艦隊にとっては大惨事となっていただろう。けれども、そのような失態が現実になることはなく、兵装転換を終えた攻撃隊は、英巡洋艦2隻をしとめる。
ところが、9日のトリンコマリー空襲と軽空母「ハーミーズ」攻撃の際にも、地上攻撃より帰艦した第一次攻撃隊の燃料補給・兵装中に、英空軍のブリストル・ブレニム爆撃機9機に奇襲されるという醜態が示された。上空哨戒の戦闘機からの警告が届かぬまま、空母「赤城」付近に水柱が上がるまで気づかないというぶざまさであった。
結局、損害が出なかったことから、日本側は自らの空母の運用に危険がひそんでいることを真剣に認識することがないまま、ミッドウェイ海戦で大敗する。サマヴィルもまた、彼の作戦が日本機動部隊を危機に直面させ、「ミッドウェイのひな形」ともいうべき事態を引き起こしたことに気づいていなかった。
とはいえ、サマヴィルは、一方的に軽空母や巡洋艦を撃沈されながらも、南雲機動部隊に捕捉されることなく、東洋艦隊主力を保全し、「現存艦隊」戦略を堅持せよとの命令を果たしたのであった。
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※本記事は、大木毅『海軍士官たちの太平洋戦争』(新潮選書)に基づいて作成したものです。










