「プロ入り拒否」の工藤公康を6位指名、巨人から大物を横取りも…“球界の寝業師”が仕掛けた驚愕のドラフト戦略
あっと驚く“隠し玉”の1位指名、プロ入りを拒否していた選手の逆転入団、ドラフト外での大物獲得……。かつてのプロ野球ドラフト会議には、何が起きるかわからないワクワク感があった。【久保田龍雄/ライター】
巨人から松沼兄弟を横取り、伊東勤も囲い込み
そんな数々の“ウルトラC”を仕掛けたのが、黄金期の西武で管理部長(実質的なGM)として剛腕を発揮した“球界の寝業師”根本陸夫である。
今も語り継がれる根本のドラフト戦略は、1978年10月、国土計画(現・西武グループ)がクラウンライターを買収し、西武ライオンズとして球界に参入した時から始まった。
前身球団のクラウンから引き続き西武の監督となった根本は、クラウンが交渉権を持っていた江川卓の獲得こそ実現できなかったものの、巨人との熾烈な争奪戦の末、ドラフト外の大物、松沼博久(東京ガス)、雅之(東洋大)兄弟の獲得に成功する。
当時のドラフトの指名枠は1球団4人まで。実力は“ドラ1級”ながら、プロ入りに積極的ではない兄弟を、入団拒否のリスクを背負ってまで指名する球団はなかった。
同年、巨人はクラウンの1位指名を拒否して1年間“浪人”した江川を、ドラフト前日の“空白の1日”に野球協約の盲点を突く形で獲得しようとした。だが、「野球協約上、該当しない」と却下されると、ドラフト会議への参加をボイコットする。
この結果、ドラフト外で新人を補強するしかなくなった巨人は、最大の目玉だった松沼兄弟の獲得に動いた。各球団のスカウト情報でも「120パーセント、巨人入り」とみられていたほどだった。
ところが、西武は球界の盟主を自認する巨人に一歩も引かず、争奪戦に参戦。最終的に兄弟2人で1億2000万円を提示した巨人を上回る1億5000万円(金額は推定)で、契約に漕ぎつけたといわれる。
『暗躍の球史 根本陸夫が動いた時代』(高橋安幸著・集英社)によれば、交渉の席上、根本は「頼むから、新生西武ライオンズを手伝ってくれ。オレが監督で、お前ら二人を使うから」と1年目から1軍で起用することを明言した。
一方、巨人側は兄を即戦力として起用するものの、弟は1年間2軍で鍛える方針を説明。この起用法の違いが「華やかなところに行くよりも、仕事として行くんだったら、根本さんのとこかなって」(松沼兄)と、西武に気持ちが傾く決め手になったという。
その後も西武はドラフト外で逸材を次々に獲得。1980年には秋山幸二、小野和幸、広橋公寿ら、ドラフト上位クラスを含む10人を入団させ、“ナイスガイ(外)”と呼ばれた。
翌81年のドラフトでは、練習生の伊東勤を1位指名し、周囲をあっと言わせた。
伊東は前年、熊本工の強打の捕手として夏の甲子園で2本塁打を記録。だが、定時制3年生だったため、卒業まであと1年残っていた。
そこで根本は、西武入りを希望する伊東を所沢高定時制に転校させ、球団職員(練習生)として迎え入れる。「すでに西武の一員」という既成事実をつくり、囲い込んだ形だ。
当然、他球団は反発した。その後、「ドラフトで指名するのは自由」とのコミッショナー見解が出されると、巨人、ヤクルトなど数球団が指名する動きを見せ始める。
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