「美智子さまイジメ」の真相は? 「“平民出身”以外に、自分に何か気に入らないことが…」 姑・香淳皇后との“本当のご関係”とは 【上皇后陛下 92歳】
香淳皇后と美智子さま
こうした執拗ないじめの中心となっていたのは、学習院女子部の卒業生らが作る常磐会である。つまり元皇族や元華族の夫人たちだ。まだ当時は、皇太子妃は元皇族元華族の中から選ばれるのが当然と思われていた。
当時の常磐会会長は、秩父宮妃殿下の生母で東宮職参与だった松平信子。そこに宮内庁内部から東宮女官長の牧野純子(内大臣だった牧野伸顕の長男の嫁)や、皇居にいる女官長の保科武子などが同調した。そしてその後ろだてには香淳皇后がいたのである。
昭和天皇の侍従・入江相政の日記にはこうある。
「東宮様の御縁談について平民からとは怪しからんといふやうなことで皇后さまが勢津君様(筆者注:秩父宮妃)と喜久君様(同:高松宮妃)を招んでお訴へになつた由。この夏御殿場でも勢津、喜久に松平信子といふ顔ぶれで田島さん(同:宮内庁長官)に同じ趣旨のことをいはれた由」(昭和33(1958)年10月11日)
日記にはさらに皇后が美智子妃のお后教育に呉竹寮を使わせることに反対したり(33(1958)年12月9日)、ご成婚パレードで、自分の4頭立てより多い6頭立ての馬車を使うことに憤慨したり(34(1959)年3月12日)という話が出てくる。皇后から美智子妃への厳しい態度は以後も一貫しており、その後もいくつか事例が散見できる。
美智子さまの懊悩
美智子妃の懊悩も日記に出てくる。東宮御所を訪ねた入江に美智子妃はこう言ったというのである。
「皇后さまは一体どうお考へか、平民出身として以外に自分に何かお気に入らないことがあるか等、おたづね。夫々お答へして辞去」(42(1967)年11月13日)
もちろんすべては平民出身ということに起因している。だが、お妃選びに皇后がまったく関われなかったことが態度をより頑なにしているようにも思われる。それは常磐会も同じで、東宮職参与の松平信子は選考委員から漏れていた。
また昭和天皇のある侍従によれば、婚約期間にはこんな出来事もあった。
「婚約が決まってまもなく東宮仮御所に、美智子妃を紹介すると言って、殿下(現・上皇陛下)が、秩父宮妃と高松宮妃を招かれたことがあった。この時、殿下はこんなことをおっしゃった。結婚してしまうと皇太子妃となり立場が変わるからお教えいただくことができなくなる。だから今のうちに相談に乗っていろいろ教えてやってほしい、と。この言葉にお二人はカッとされてしまい、美智子妃には悪い結果となってしまった」
美智子妃いじめの実態は、密かに囁かれてはきたものの、昭和60(1985)年くらいまで表に出てくることはなかった。だから宮内庁が噂を打ち消したり、何らの対応を講じることもできなかった。美智子妃は長年、誤解や中傷の中で一人過ごさねばならなかったのである。それでもやってこられたのは、もちろんご本人の尽力もあるのだが、皇太子に幼いときから付き従い、お妃選びをし、その生涯を捧げるような側近が数々いたからではないかと思う。
【前編】では、「美智子さまイジメ」の第一幕、第二幕について詳述している。美智子さまが苦しめられた「手袋事件」「聖書事件」の真相とは――。
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