文明開化の象徴「鹿鳴館」でドレスアップした紳士淑女がしていた「はしたない」振る舞いとは?
日本の「文明化」を西洋社会にアピールするために設けられた鹿鳴館。夜な夜なドレスアップした日本の紳士淑女が舞踏会でダンスに興じたが、彼らが控室で行っていた「はしたない」振る舞いを、当時来日していたフランス人画家がしっかりスケッチに残していたという。
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以下、国際日本文化研究センター所長で文化史家の井上章一氏の新刊『日本人はなぜ家で靴を脱ぐのか 土足禁止の精神史』(新潮選書)から一部を再編集して紹介する。
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日本人は長年、室内での土足を、公的な場であれ私的な場であれ、きらってきた。だが、洋靴への違和感については、心理的な抵抗感だけではなく、べつの側面もある。伝統的な草履や草鞋は、足をしめつけない。いっぽう、洋靴は足先のぜんたいを圧迫する。日本の履き物になじんできた人びとは、靴のきゅうくつさもいやがったはずである。
また、床へ足先をおいて椅子にすわりつづける姿勢も、むずかしく感じた。じゅうらいは、畳や板のうえに直接腰をおろしてきた民族である。椅子へ着席せざるをえない場合でも、しばしば彼らは靴を床へぬぎすてた。さらに、脚を座席の上へもちあげたりもしたのである。
控室で靴を脱いだ紳士淑女
鹿鳴館は、近代日本の西洋化を代表するクラブハウスであった。1880年代の貴賓たちは、ここで欧米の外交官らと、ダンスパーティーをもよおしている。ずっと靴をはきつづけなければならない舞踏会に、参加した。
そんな鹿鳴館の舞台裏、控室の様子をジョルジュ・ビゴーがえがいている。見れば、フォーマルなよそおいの男女4人が、みな靴をぬいでいた。そのうち3人は、足先をソファの上にのせている。
まるで、そこが畳の上ででもあるかのように、ふるまった。蝶ネクタイの男は、靴のとれた脚をあぐらに交差させている。けっきょく、たいていの日本人には、そちらのほうが楽だったのである。
車中はまるで住まいのように
3等車まであった時代だが、これは2等車の様子をしめしていた。いわゆる中流以上の人たちは、どうすごしていたのかが、よくわかる。見れば、多くの人たちが膝をおる形で、座席に脚をのせながら、すわっていた。やはり、椅子に腰をかける姿勢は、たもつのが困難だったのだろう。
履き物は、ほとんどの乗客がぬいでいた。草履も、床の上へおきざりにしている。車中の床は、家屋における土間のようになっていた。個人住宅における私的な流儀が、公共空間へもちこまれたのだと言ってよい。
こういう所作をしめす人は、時代が下るにつれへっていく。それでも、20世紀、高度経済成長のころまでは、よく見かけた。とりわけ、高齢の女性に顕著であったと思う。幼児期の私はこの姿勢を、ひそかに「おばあさんずわり」と名づけていた。
■「おばあさんずわり」の記憶
洋画家・小磯良平の挿絵もある。『主婦の友』(1960年7月号)に掲載された。座席中の老女性だけが、下駄を床におき、脚をたたみながらすわっている。
これは井上靖の『しろばんば』(1962年)という自伝的な小説にそえられた。1910年代の伊豆あたりが、舞台になった物語である。しかし、図のような乗客とは、私がそだった京都の近郊でも、よく遭遇した。少なくとも、挿絵の発表された1960年ごろは、日常的に散見したものである。
座席の上では履き物を脱ぐ。靴を脱ぎたい体は、公共空間の中でも長く生き続けたのである。それだけ、土足をきらう日本人の心性は根強いのだ。
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※本記事は、井上章一著『日本人はなぜ家で靴を脱ぐのか 土足禁止の精神史』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。










