女学校の教室でもじもじと……誇り高き「武士の娘」を辱めた驚きのルールとは?

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 誇り高き武士の娘が、教室の入口でもじもじと立ち尽くした――。

 明治時代、東京のミッション系の女学校に通い始めた旧長岡藩の家老の令嬢として生まれた杉本鉞子(えつこ)を戸惑わせた「受け入れがたいルール」とは何だったのか。

 西洋化の波が押し寄せる明治の東京で、染み込んだ習慣を無視するよう強いられた「武士の娘」の逡巡。それがいかに屈辱的だったかを、国際日本文化研究センター所長で文化史家の井上章一氏の新刊『日本人はなぜ家で靴を脱ぐのか 土足禁止の精神史』(新潮選書)から一部を再編集して紹介する。

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『武士の娘』のとまどい

 杉本鉞子という女性を、ごぞんじだろうか。1928年に日本へかえるまで、20年ほどアメリカぐらしをつづけてきた。生まれたのは1873年。出生地は新潟の長岡である。旧長岡藩の家老であった稲垣家の令嬢にほかならない。たまたま、アメリカで貿易業にたずさわる杉本家へとつぎ、長期の滞米生活をおくった。

 1925年には『武士の娘』という本を、現地で出版する。一種の自伝である。渡米前に鉞子は、東京のさるミッション・スクール、女学校へかよった。そして、そこで、文化的な溝を感じている。日米間のそれではない。西洋化された東京と、非西洋的な新潟のあいだに横たわるギャップを、かみしめた。『武士の娘』には、こうある。

「履物では、全く困り果てたものでした。それまで家の中へ入るには、必ず履物はぬぐものときめておりましたのに、ここでは、畳敷きの寄宿舎以外はどこでも、履物のままで出入りするのでした。私が教室の入口でもじもじと躊躇しないですむようになりますまでには、かなりの日数がかかりました」(大岩美代訳『武士の娘』1967年)

 公共的な場であれ私的なところであれ、屋内へ土足のまま出入りする。西洋化がもたらしたそういう生活に、伝統的なしきたりでそだった日本人はなじめない。いやおうなく、ためらわされたことを、回顧的にのべている。

 鉞子ひとりの逡巡ではない。ある時期までは、ほぼすべての日本人が、これと同じ想いをあじわった。このとまどいをおしきったうえでのことなのである。われわれが公共的な屋内へ、外履きのままあがれるようになったのは。

級友は笑いころげた

 東京生活の長い鉞子の級友たちは、彼女の「躊躇」をからかったらしい。「私のためらう様子を見ては、面白そうに笑いころげるのでした」と、鉞子はふりかえる(同前)。しかし、そんな同級生たちも、同じような体験をへてきたろう。少なくとも、彼女らの両親は、何度となくとまどったにちがいない。

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※本記事は、井上章一著『日本人はなぜ家で靴を脱ぐのか 土足禁止の精神史』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。

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