「西洋の最先端技術は予習済み」の福沢諭吉が、思わず驚愕した「西洋の習慣」とは?
1860年、咸臨丸でアメリカに渡った福沢諭吉は、蒸気機関には驚かなかった。蘭学の本で、西洋の最先端技術はすべて予習していたからだ。だがその福沢も、サンフランシスコのホテルでは思わず肝をつぶしたという。
はたして、蘭学の秀才を驚愕させたものとは何だったのか。
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国際日本文化研究センター所長で文化史家の井上章一氏の新刊『日本人はなぜ家で靴を脱ぐのか 土足禁止の精神史』(新潮選書)から一部を再編集して紹介する。
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幕府が送り出した咸臨丸
咸臨丸は19世紀のなかばすぎ、つまり江戸末期に太平洋を横断した。日本史上最初の、意図してアメリカへむかい、そしてたどりついた船である。
江戸幕府の軍艦でもあるが、これを幕府はオランダで建造させた。オランダでは、注文主への配慮であろうか、日本(ヤッパン)号と名づけられている。「咸臨」は、日本で新しくそえられた名前である。
日米修好通商条約は、1858年に調印された。その批准書をアメリカの大統領とかわしあうため、幕府は使節をワシントンへ派遣する。日本へきていたポーハタン号へ、あちらの軍艦だが、彼らをのりこませおくりだした。1860年のことである。いっぱんには、万延元年の遣米使節とよばれている。
福沢諭吉が乗り込めた理由
咸臨丸はその護衛艦として、太平洋へのりだした。幕府はこの渡航で、遠洋航海の技術を侍たちにまなばせようとしたらしい。また、幕府の軍艦に渡米の能力があることも、証明したかった。
そのため、操舵の役目も、侍にゆだねている。まあ、彼らは船酔いのせいで舵取りができかね、アメリカの水兵にたすけられたのだが。提督になったのは軍艦奉行の木村喜毅(よした)である。艦長には、軍艦操練所の教授方頭取であった勝海舟が、えらばれている。また、この船には、あとで慶応義塾の創設者となる福沢諭吉も乗船した。
当時の福沢は、1年3カ月前に大阪から江戸へきたばかりである。幕府にさしたるつてはない。そんな福沢が、どうして幕府海軍の船にもぐりこめたのか。福沢は蘭学をまなんでいる。その学縁をつうじ、江戸でも桂川家へ出入りをすることができた。
桂川は蘭学を家業とする幕府の侍医である。福沢は同家をとおして、提督の木村を紹介してもらう。そして、木村の従者になりおおせた。いろいろ、手はつくしたようである。それだけ、洋行には情熱をもっていたということか。
ホテルの絨氈に仰天
さて、一行はサンフランシスコで、かなりりっぱなホテルに宿泊した。その見事さを、福沢は絨氈のあざやかさでしめしている。日本では、たいそう贅沢な者でも小物入れにするくらいが関の山となる。そういうレベルの布地でできた絨氈が、ホテルでは床にしきつめられていた、と。
だが、福沢のおどろきは、そこだけにとどまらない。絨氈の上を歩く現地人の足元にも、衝撃をうけた。彼の自伝には、こうある。
「日本人は大小を挟(さ)して穿物(はきもの)は麻裏草履を穿いている。ソレで、ホテルに案内されて行ってみると、絨氈が敷き詰めてある(中略)その上を靴で歩くとは、さてさて途方もないことだと実に驚いた。けれどもアメリカ人が往来を歩いた靴のままで颯々(さっさ)と上がるから、此方(こっち)も麻裏草履でその上に上がった」(『新訂福翁自伝』1978年)
■ハワイでの前兆
こんなにみごとな絨氈の上を、こちらの連中は土足で歩くのか。そのことに、福沢は胆をつぶしている。
西洋人が屋内で靴をはくことは、あらかじめ知っていたかもしれない。たとえ知らなくても、サンフランシスコへつく前に、ハワイの宿で気づいたはずである。じっさい、ポーハタン号の随員であった玉虫左太夫が書いている。この宿では、「靴シテ出入ス」、と(「航米日録」『日本思想大系66』1974年)。
土足で宿にあがるこの光景を、福沢もハワイで実見したにちがいない。だが、ハワイの宿では、さしたる反応をしめさなかった。福沢が驚愕したのは、後日にサンフランシスコで見たホテルの光景なのである。やはり、床にしかれた絨氈の豪華さが、福沢をびっくりさせたのだろう。
■理屈ではない暮らしの作法
いっぱんに、蘭学知のある日本人は西洋の尖端技術におどろかなかったと、言われている。原理的なことは、たいてい蘭書をつうじまなんできた。蒸気機関などに関しても、理屈はわきまえていたとされる。
だが、生活習慣のちがいについては、彼らもほとんど勉強をしていない。そもそも、まなぶにあたいするとは、思ってこなかった。高級な絨氈の上を土足で歩く現地人の姿は、蘭学の秀才も新鮮にうけとめたはずである。
技術は書物で学べても、暮らしの作法は現地で体感するしかない。西洋の科学技術に精通した蘭学の俊才も、書物では学ぶことができなかった「土足の絨氈」に仰天する。この落差にこそ、日本人の身体に染みついた「反土足」文化の深さが表れている。
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※本記事は、井上章一著『日本人はなぜ家で靴を脱ぐのか 土足禁止の精神史』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。










