「1日にたばこ50本、日本酒は1升」 胃がんでキャリアが暗転してからの復活…没後11年の塩川正十郎財務相の秘話

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派閥の目的

 塩川氏は、派閥の目的は領袖を首相にするという純然たる政治活動と考えていた。だからこそ「角福戦争」では生意気な若手と言われながら、田中派側との舌戦の最前線に立ったのだ。1976年、福田内閣が実現。塩川氏は内閣官房副長官を担った。

 1986年、安倍晋太郎氏が福田派(清和会)の後継会長に。今度は安倍晋太郎氏を首相にと動き出す。塩川氏は、三塚博氏、森喜朗氏、加藤六月氏と並んで、安倍派四天王のひとりと呼ばれる実力者になっていた。

 1989年には宇野宗佑内閣の官房長官に就任。大役だと意気込んでいたが、宇野首相の女性スキャンダルで内閣はわずか69日で崩壊。

 小泉内閣で財務相就任時に発した「もうよろしいやろ」と双璧を成す塩爺の名言がある。宇野内閣の官房長官時代、官房機密費を野党対策費に使っていたと発言したことが問題になり、国会で追及された際の答弁「忘れてしもうた」である。とぼけたこの一言に、与野党議員ともにあっけにとられ、爆笑とともに、なんとなく収束してしまった。もはや人徳である。

暗転、大切な時期に

 しかし1989年当時、実は官房長官として野党にお金を用意している場合ではなかった。翌1990年、胃癌が見つかり手術。1日にたばこ50本、日本酒は1升、おまけに食事は大食いでかき込んでいた。

 癌を隠さず潔いと妙なところでマスコミからも感心され、自身も闘病中だった安倍晋太郎氏から「とにかく生きることだけを考えろ」と励まされたが、翌1991年には安倍氏が膵臓癌で亡くなってしまう。

 塩川氏は月刊誌『新潮45』で当時の心境について〈病気さえなければ、私が安倍派を受け継ぐ可能性もあった。福田先生も「安倍の後は塩川に」と言っておられた。しかし、大病をしてしまうと、そういう大任は回って来なくなるものです〉と述べている。派閥の会長、ひいては総理総裁もとの思いはあった。会長には三塚氏が就いた。

夫人の思いで返り咲き

 悔しさで気が抜けたようになり、周囲が驚くほど性格は穏やかになった。さらに1996年には落選の憂き目を見る。75歳の塩川氏は一度は引退を考えた。しかし、党から出馬を請われる。

 悩む塩川氏の背中を押したのは、妻の鈴子さんである。万事控え目で派手なこと、目立つことが嫌い。選挙の際も塩川氏が演説中、深々と始終お辞儀し続けるぐらいの人だった。そもそも政治の世界を好まなかったが、夫の心中を「このままでは無念だろう」と察していたのだ。

 2000年、衆院議員に返り咲く。そして2001年、自民党総裁選に立候補した小泉氏の選対本部長を務め、首相となった小泉氏は塩川氏を財務相に起用した。「角福戦争」以来の旧知の仲であり、安心感を持たれ、塩川氏は小泉内閣の重しと言われた。初当選した時分から小泉氏が周囲に流されず一貫している姿勢を、塩川氏は認めていた。

 政治家としてこれまで最大の注目を浴び、79歳にしてスターとなった。「塩爺」人気も、そもそも妻の鈴子さんの静かな励ましによって政界で復活しなければ起こり得なかった。

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