「1日にたばこ50本、日本酒は1升」 胃がんでキャリアが暗転してからの復活…没後11年の塩川正十郎財務相の秘話

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日本の政治を分けるものは

 後の「塩爺」ブームにより、政治に関して取材を受ける機会が増えると、必ずといっていいほど日米関係の重要性に触れ、集団的自衛権についても早くから言及していた。持論は「日本の政治を分けるものは、親米かそうではないか」で、反米は共産党だけと位置づけた。一見反米に見える党も本音では親米として、当時の民主党に対して「建前ばかり言うのはいかがなものか、建前は嘘につながる」と批判している。
岸氏を通じて日米安保の核心を理解していたからこそ、「親米」は軍事以外にも経済など広範な面で日本に必須のものと現実的に受け止めていた。とはいえ、塩川氏はあくまで「親米」の立場で、「米国一辺倒」の考え方はとっていない。

「角福戦争」の最前線

 塩川氏が福田派の若手として注目されるようになったのは、田中角栄氏と福田赳夫氏が自民党内で激しい権力闘争を繰り広げた「角福戦争」の時期である。討論の場で、塩川氏は「物で栄えて心で滅ぶ日本になっていいのか」などと田中氏を批判。すると浜田幸一氏から「官僚国家になっていいのか」と大声で反論が返ってくる。福田氏が大蔵官僚出身だからである。ここで「それなら土建屋国家になっていいのか」と言い放つあたりが、塩川氏の気の強さだ。

「田中的自民党」「福田的自民党」

 小泉首相は、自民党が変わろうとしないならば自民党をぶっ壊すと言ったが、それは「田中的自民党」から「福田的自民党」に変えようとする動きだと塩川氏も納得した。金の力、数の力、足して2で割るような談合の論理によって権力を獲る政治から、理念、政策、公共の精神を大切にする政治への変化とでもいうべきものだ。塩川氏は理想主義的なのではなく、要は、「田中的」な手法が嫌いなのだ。

 小泉氏は塩川氏を「多くを語らなくても常に私の真意を直感的に、正確にわかってくれる」と評し、塩川氏もまた「非常に不思議なんですが、相談も何もしていないけど考え方が同じなんです」と言った。

塩川氏と小泉氏の出会い

 塩川氏は小泉氏より21歳年上。ふたりが出会ったのも「角福戦争」の時期だ。小泉氏は最初に立候補した1969年の衆院選では僅差で敗れ、福田邸に通い来客の靴をそろえたり、運転手を呼び出したりする書生のような立場でいた。塩川氏は初当選から間もない時期で、福田邸によく出入りしており、その姿を見ていた。小泉氏は1972年に初当選を果たすが、以来、福田派内でふたりが特別親しかったわけではない。それでも「田中的自民党」に疑問を持つという共通項は変わらなかった。

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