手売りCDからメジャーへ 押尾コータローが語る“人生を変えたラジオ”と憧れの甲斐よしひろ、長渕剛との共演

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第1回【押尾コータロー、ギター初日に「Em」で挫折 人生を変えた“イケメン親友”の一言】のつづき

 プロのギタリストを夢見て東京の音楽専門学校に進んだものの、デビューは叶わず地元・大阪へ戻った押尾コータロー(58)。帰阪して組んだバンドではベーシストとして活動。ギタリストとしての道はやや遠回りだった。

ギタリストを探すほうが簡単だから

 大阪に帰った当初は、バンドを組むべく、ドラマーと2人でボーカルとベーシストを探していた。ボーカルはすぐに見つかったものの、ベーシストがなかなか見つからない。ふと、ある考えが浮かんだ。

「それなら自分がベースをやって、ギタリストを探した方が早いと思いました。『弦が4本で簡単かな、エレキギターはエフェクターを踏むのも難しいし、ベースのほうがアコースティックギターに近いかも』というイメージがあったんです。そんなに甘いものではなかったですが、結局7年ぐらい、ベースをやっていました」

 ベースはベースで楽しんだが、根がギタリストなのか、基底部のベース音だけではなく“飾りの音”まで演奏する押尾のスタイルにドラマーが異を唱えた。

「ドラマーが連れてきたベーシストの演奏を聴いて、もうベースは辞めようと思いました(苦笑)」

 ならば、中川イサトに教わったギタースタイルをエレキで生かそうと考えた。

「(音をひずませる)ディストーションをかけたりするのではなく、クリーントーンで、(開放弦で和音を鳴らす)オープンチューニングをして、みたいなことをやり出したんです。でもそのスタイルだと『アコースティックギターのほうがいい』と思うようになり、エレキをやめて、バンドはアコギとドラムとベースの編成になりました」

 今につながる押尾のスタイルが確立されつつあったが、当時27歳。バンド活動も潮時を迎えた。

「結婚するメンバーもいて、さすがに売れないバンドはやっていられない歳でした。うちの親も『そろそろバンド活動は趣味にしたら』と言い始めて。それでも音楽をやりたくて、小編成のボーカルとギターだけで(米ジャズデュオの)タック&パティみたいなのをやりたいとも考えましたが、ボーカルも違う道に行きたいと言い出した。最終的に1人になったんですが、思えば最初から1人が向いていたのかもしれません」

ソロギタリストとして再出発 カリスマDJに紹介されたCDが……

 当初はオリジナル曲もなく、ライブなどではカバー曲ばかりを演奏していた。ある店では酔客に「イパネマの娘」をリクエストされたことも。

「当時は何の曲かわからず、『そんなことも知らんのか』って言われて。そういう曲を家に帰ってから調べ、聴いて、レパートリーを増やしていきました。お客さんが喜んでくれていたので、カバー曲ばかりのCDを出そうと思ったら、著作権料がかかる。だから著作権料が要らない『禁じられた遊び』、著作権料はかかるけれど以前からやっていた『戦場のメリークリスマス』や『第三の男』などに加えて、初めて作ったオリジナル曲でCDを作ったんです」

 1999年12月に出したインディーズCD「押尾コータロー」だ。ジャケットは河島英五が経営していたライブレストラン「Bee House」で撮影。押尾が定期的にライブを行っていた場所だ。

「英五さんの息子さんが、ラジオ大阪でDJをしていたヒロ寺平さんの息子さんの友人で、そのつてでヒロさんに『この人すごいよ』と僕のアルバムを渡してくれたんです」

 カリスマDJにラジオで紹介されたことによって、CDは手売りでは追い付かなくなった。2001年3月にはインディーズ2枚目となるアルバムを発売。これも話題となり、2002年のメジャーデビューにこぎつけた。

「聴いてくれる層がめちゃくちゃ広がりました。かつてはチケットが売れなくて、電話をして『今から来てもらえませんか』と“営業”していたこともありましたから。それがヒロさんの番組で紹介されてから、チケットが何百枚と売れるようになって。こんなに違うのかと思いました。メジャーデビューしてからは、また世界が広がった分、誰も僕のことを知らないところからやり直し、という思いもありましたけどね」

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