【豊臣兄弟!】山田涼介演じる“将来の関白”秀次 10年後に妻妾・子供三十数名を襲った史上類を見ない大虐殺事件
冤罪を訴えて切腹した秀次を放置できなかった秀吉
その後、運命が動く。奥州仕置で転戦中の天正19年(1591)1月22日に秀長が病死し、8月5日には、2年前に淀殿が産んだ秀吉の嫡男の鶴松も急逝した。藤田恒春氏は「自己を補佐した秀長、後継者として期待した実子の喪失は、何がなんでも補填しなければならなかった。身内で残っているのは、秀次のみとなった」と記す(『豊臣秀次』吉川弘文館)。事実として、11月20日に居城の清洲城(愛知県清須市)に戻った秀次は、28日に権大納言、12月4日に内大臣に昇進し、同28日には関白の勅許を得ることになった。
だが、文禄2年(1593)8月3日、淀殿が拾、のちの秀頼を産んで以後、秀次と秀吉の関係は微妙になっていく。もっとも、当初はそうでもなかった。秀吉は9月4日、秀次を伏見城に呼んで「先ず日本国を五ツに破り、四分参らるべしと云々(日本国を5分割し、うち4つを秀次が治める)」(『言経卿記』)と提案。10月1日には、生後わずか2カ月の拾と秀次の娘の婚約まで決めた(『駒井日記』)。
翌文禄3年(1594)も、秀吉と秀次は大過なくすごしたが、翌文禄4年になると雲行きが変わってきた。秀吉は秀次に、その地位を拾に譲るように求めたのではないか、と見る研究者は多い。だが、秀次が秀吉の期待に応えなかったということか。公家の山科言継は7月8日の日記に、「関白殿ト太閤ト去三日ヨリ御不和也(秀次と秀吉は7月3日から不和だ)」と書いている。秀次は8日、弁明するために伏見城(京都市伏見区)にいる秀吉を訪れたが、会うことすら許されなかった。そこで秀次は、髪を頭上に束ねる元結を切り、5、6人だけを従えて高野山に向かった。
そこまではいいとして、秀吉の許しが得られないと悟った秀次は、少なくとも『御湯殿上日記』の記述に従えば、無実を訴えるためにみずから切腹した。『御湯殿上日記』には「くわんはくどのきのふ十五日のよつ時に御はらをきらせられ候よし申、むしつゆへ、かくの事候のよし申なり(関白は昨日15日の朝10時、切腹なさったそうで、無実だからこうしたとのことだ)」と書かれている。じつは、これは秀次にとって最悪の結果を招く道だった。
秀次が自身の冤罪を訴えて切腹したなら、政権の誤りを指摘された秀吉としては放置できない。そこで秀吉は、秀次に後付けで謀反の罪を着せたと考えられ、女子供をはじめ、何の罪もない人たちの大量虐殺へとつながった。
秀次の首の前で5時間かけて虐殺
7月15日に秀次が切腹した際、小姓の山本主殿、山田三十郎、不破万作、雀部重政、それに東福寺の虎厳玄隆の5名が後を追い、同じ日のうちに側近の木村重茲、粟野秀用、熊谷直之、白江成定らが自刃した。続いて26日、木村重茲の妻と娘が三条河原で殺され、嫡男とその嫁の首がさらされ、13歳の女子が磔に架けられた(『兼見卿記』)。ほかの側近の家族にも、同様の仕打ちがあったのかもしれない。秀次と関わりが深かった6人が、蟄居を命じられた末に成敗された、という記録もある。
そして8月2日を迎える。『上宮寺文書』などによれば、三十数名が7台の車に分乗させられ、京都の市中を引き回されてから三条河原に送られた。1台目の車には子をもつ女性3人が乗り(子は3つ、2つ、1つの3人。5人とする記録もある)、2台目には公家の菊亭晴季の娘である正室と、最上義光の娘である別妻ら4人が。続いて3台目には、武家出身と思われる4人の姿が見え、4番目には公家の四条家の娘ら4人が……。史料によって多少のズレはあるが、三十数名が死に装束を着せられ、こうして護送されたのである。
石田三成らに引き立てられた彼女たちが河原に着くと、盛られた土の上には三宝に載せられた秀次の首が置かれていた。三十数名はみなその首を拝まされたうえで、一人ひとり首をはねられていった。この虐殺劇は衆人監視のもと5時間におよび、処刑が終わると全員の遺体を一カ所に集めて土を盛り、「悪逆塚」と刻まれた塔が建てられた。
はたしてどちらが「悪逆」なのか、と突っ込みたくなるが、それ以前に、あまりにも残酷なので、書きながら気持ちが悪くなるほどである。主人公の秀長が死去して4年半ほど経ってからの事件なので、幸いにも『豊臣兄弟!』では描写されない。いずれにせよ、当時の社会を震撼させたこの事件が、その後の豊臣政権の弱体化につながったことは疑いない。
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