【豊臣兄弟!】山田涼介演じる“将来の関白”秀次 10年後に妻妾・子供三十数名を襲った史上類を見ない大虐殺事件
責任逃れする総大将として描かれた秀次
羽柴秀吉(池松壮亮)の姉、すなわち秀長(仲野太賀)の姉でもある「とも」(宮澤エマ)と吉房(上川周作)の長男の万丸が元服し、凛々しい武将となってNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』に登場している。秀吉と秀長の甥にあたるこの若者を演じるのは山田涼介で、現時点での名は三好信吉。宮部継潤(ドンペイ)に続き、畿内で大きな力を誇った三好一族の三好康長の養子になったため、そう名乗っていたが、のちの関白秀次といったほうが断然、名の通りはいいだろう。
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第35回「秀長誕生」(9月13日放送)では、天正12年(1584)3月から秀吉と、徳川家康(松下洸平)および織田信雄(山脇辰哉)が相まみえた小牧・長久手の戦いの模様が描かれ、永禄11年(1568)生まれ(異説もある)の信吉はこのとき数え17歳だった。その若武者が、本陣の小牧山城(愛知県小牧市)に籠ったままの家康を刺激するために、家康の本拠地である三河(愛知県東部)を攻めようという案が浮上したとき、その別動隊の総大将を務めたいと、みずから名乗り出た。その申し出を、秀吉は許した。
ところが、信吉が総大将を務めた羽柴方の別動隊は4月9日、その動きを見破った徳川方の軍勢に急襲されて敗戦。それも、池田恒興(堀井新太)と元助(柴崎楓雅)の父子をはじめ、有力武将が何人も討死する惨敗を喫した。この長久手の戦い後、秀長は「あまり己を責めるでない」と信吉を慰めたが、信吉は「なぜ私がみずからを責めねばなりませぬ?」と問い返してきた。戸惑う秀長に、信吉はこう二の句を続けた。「敵が小牧山城を出れば知らせが届くはずだった。それを見過ごすは、かの者たちにございます。わしが攻められるのは筋違いじゃ。だれかは知らぬが、負けたのはその者たちのせいじゃ」。
「それは違うぞ。こたびは徳川方の策がわれらを上回ったのじゃ。だれも攻めることはできぬ」と秀長に諭されたが、人の上に立つ人間のものとは思えないこの発言は、信吉すなわち秀次の将来の悲劇を暗示している、ということなのだろうか。だが、秀次は(以下は表記を秀次に統一する)、10年余りのちに筆舌に尽くしがたい悲劇に見舞われるものの、愚鈍だったと伝えられているわけではない。
「深く道理と分別をわきまえた人」
たとえば、イエズス会宣教師ルイス・フロイスは、秀次が天正19年(1591)12月に関白に就任したのちの描写だが、『日本史』に次のように書いている。
〈関白の甥である新関白秀次は、弱年ながら深く道理と分別をわきまえた人で、謙虚であり、短慮性急でなく、物事に慎重で思慮深かった。そして平素、良識ある賢明な人物と会談することを好んだ。彼は関白から、多大の妄想と空中の楼閣とも言える、上記のような内容の書状を受理したが、ほとんど意に介することなく、かねてより賢明であったから、すでに得ているものを、そのように不確実で疑わしいものと交換しようとは思わなかった〉(松田毅一・川崎桃太訳)
どこまで的を射た評価か確認する術はないが、フロイスが秀次を必要以上に持ち上げる理由もないので、少なくともフロイスは高く評価していたのだろう。そうである以上、評価すべき理由があったのだと思われる。
秀次といえば、農民を鉄砲の標的にし、通行人をなで斬りにするなどの残虐な振る舞いゆえに「殺生関白」の異名があったとされてきたが、それは「秀次事件」を経たのちの作り話だ、というのが近年の研究の大勢である。
まずは長久手の戦い以後の秀次の遍歴を確認しておこう。長久手の結果に対しては、秀吉から厳しく叱責されたが、翌天正13年(1585)の四国征伐では戦功が評価され、近江(滋賀県)に43万石をあたえられて八幡山城(近江八幡市)を築いた。同15年には従三位権中納言に任ぜられ(翌年には従二位)、「近江中納言」と呼ばれるようになった。同18年の小田原征伐では、病に臥せる秀長に代わって秀吉の副将を務め、緒戦で山中城(静岡県三島市)を半日で落城させ、秀吉に激賞された。
小田原城の開城後は、徳川家康を補佐して奥州仕置(東北地方の平定)に向かい、その留守中、改易になった織田信雄の旧領のうち尾張(愛知県西部)と伊勢(三重県東部)の北部などが加増され、100万石の大大名になった。ただし、秀次の資質がフロイスの評価どおりだとしても、一族も子飼いの家臣も少ない秀吉が、甥の秀次を能力以上に抜擢したという側面は否定できないだろう。
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