「土足はダメ」「いや脱がない」――日露交渉を破談の危機に陥らせた「文明の衝突」を解決した妙案とは?
江戸時代後半、日本近海に外国船が出没した。その嚆矢となったのが、北から押し寄せたロシア船だった。そのうち、1811年、測量のため千島列島を南下し、国後島で補給を受けようとしたディアナ号艦長ゴロウニンが日本側に捕らえられた。
その解放交渉の大詰めで、日露両国にとって思いもよらない事態が生じた。日本側は「控室で靴を脱ぎ、靴下で入室を」と求めた。しかし、ロシア側代表リコルドは「西洋で靴を履かないのは鎖につながれた国事犯だけ」と猛反発する。
はたして、仲介役の高田屋嘉兵衛が見いだした妥協案とは、いかなる妙案だったのか。以下、国際日本文化研究センター所長で文化史家の井上章一氏の新刊『日本人はなぜ家で靴を脱ぐのか 土足禁止の精神史』(新潮選書)から一部を再編集して紹介する。
***
嘉兵衛が伝えた「念押し」
日本に拉致された船長のゴロウニンらを、とりもどす。ディアナ号にのこされた部下のリコルドは、そのため日本側と交渉した。松前奉行らとのやりとりには、高田屋嘉兵衛を信頼し、むかわせている。そして、嘉兵衛は両者の妥協点をさぐりあて、和解へこぎつけた。ディアナ号へゴロウニンをつれてかえることにも、成功している。
交渉の過程で嘉兵衛は、洋上のディアナ号と奉行所のあいだを、なんども往復した。そして、ある日、船で待機するリコルドのもとへ、朗報をとどけている。松前奉行の重役がロシア人たちにあうことをきめた。明日は対面の場へいってほしい。そこで接見をおえれば、すべてのけりがつく、と。
リコルドの手記によれば、この時嘉兵衛はつぎのような要望も、つけくわえた。
「接見の間はきれいな敷物を敷き、その床の上に当の両長官も着座されるのだが、皆さんはその部屋に靴履きのまま入るのかね。土足で家に入るのは、日本古来の習慣に反し、この上もない失礼だ。だから皆さんは控室で靴をぬいで、靴下だけで接見の間に入つて貰はねばならん」(「1812および1813年 日本沿岸航海および対日折衝記」『日本幽囚記 下』)
「奇怪な要求」に面喰らう
ゴロウニンらを釈放する準備はととのった。奉行所は会見の場を、とくべつにこしらえている。けっこう、りっぱな建物である。さっそく、そこへでかけてほしい。でも、みなさん、まさか床の上へ土足であがったりはしないよね。嘉兵衛は、念をおすような口調で、ディアナ号の面々にそうつげた。
話を聞かされ、リコルドはおどろく。靴をぬげだって。「ヨーロッパ人にとつて」、それは「思ひがけもない奇怪な要求」である。「私もしばらくは面喰つてしまつた」。以上のように、彼の手記は言葉をつづけている。
接見には靴履きのままのぞむ。リコルドは、何もうたがうことなく、はじめからそう思いこんでいた。そのため、奉行の意向をつたえる嘉兵衛には、こうあらがう。
「正装帯剣でしかも靴なしなどといふことは、たとひどう云ふ名目でも承知できない」(同前)
■靴なしは国事犯だけ
また、靴がぬげない理由も、以下のようにのべた。
「西洋では靴をはかずに他所へ行くのは失礼どころか、この上もない不名誉なことだよ。その訳は、西洋では靴をはかないのは、鉄鎖につながれた国事犯だけだからだよ。だから知つての通り、使節といふ特別の資格を持つた俺がだ、靴もはかずにどうして日本の高官を訪問できるものか」(同前)
リコルドは、ゴロウニンの副官であった。そして、船長がいないあいだは、臨時に船長代理となっている。松前藩や幕府との交渉でも、とうぜん外交使節としてのぞむことになる。そんな立場の自分が、接見の場で靴をぬぐわけにはいかないという。
外交の儀礼的な場には、おりめただしい姿でおもむかねばならない。それが使節のつとめになる。靴なしでの臨席は、そのマナーを逸脱しすぎている。はだしや靴下履きだけといういでたちは、正装たりえない。そうリコルドは抗弁した。
■「大譲歩をする用意がある」
この返答を聞いて、嘉兵衛は言葉につまったらしい。もちろん、部屋のなかでも靴履きのままですごすロシア人の習慣は、わきまえていた。しかし、こうまで強く、そのならわしに拘泥するとは、思っていなかったようである。嘉兵衛とすれば、絶句するしかなかったということか。
言葉をうしなった相手の様子を見て、リコルドは考えをあらためる。とにかく、日露のあいだでは、妥結のめどが見えていた。ゴロウニンを解放してもらう合意もとりつけている。西洋的な正装像にとらわれて、両者の会見をだいなしにするのは、いかにもまずい。なんとか、おりあおう。そう心をくだき、嘉兵衛にはこうつげた。
「この会見を打ち壊はさないために、こちらから大譲歩をする用意がある」(同前)
長靴を脱ぎ、短靴に履き替える
自分たちのこだわりをおさえ、お前たちに歩みよってもよい。妥協の手だてはあるという。手記からの引用をつづけよう。ディアナ号の船長代理は、奉行所からの使者でもある嘉兵衛へ、もちかけた。つぎのようなやりかたもあるが、どうか、と。
「西洋でも非常な大官に対し、特別の敬意を表しようとする時には(中略)控室に入つて長靴を脱いで、お前も知つてゐる短靴をはく習慣があるんだ」(同前)
ブーツ(長靴)を足からはずして、ショート・シューズ(短靴)にはきかえる。つまり、踵をつつむ室内履きに足先をとおしなおす。それでも、ロシア側の体面はたもてる。日本人のいやがる土足での入室も、いちおうさけられる。これでどうだろうと、嘉兵衛にたずねている。
■「それなら双方とも顔が立つ」
外履きにつかった靴で、床の上をあるくのはあきらめる。かわりに、べつの室内履きへ、これも靴の一種だが、はきかえるという提案である。リコルドの申し出に、嘉兵衛はとびついた。よろこびながら、以下のようにこたえたらしい。
「それで沢山だ。それなら双方とも顔が立つて、立派に礼儀が保たれる。わしはその短靴を日本の足袋と同じものだと話し、皆さんは長靴を脱いで、革足袋で接見の間に入ることに同意されたんだと伝へるよ」(同前)
奉行所には、つたえておく。ロシア人たちは、接見所の控室で短靴にはきかえる予定である。だが、あいかわらず靴をはいていると、心配するにはおよばない。彼らの短靴は、自分たちの足袋に該当する。それは、革でできた足袋にほかならない、と。
■「言い換え」も外交
しかし、ショート・シューズを、足袋とはみなせまい。両者は履き物としてのカテゴリーが、ちがう。そんな短靴を足袋の同類と言いくるめる物言いには、無理がある。だが、嘉兵衛は短靴と足袋の同一視に活路を見いだし、その線で接見をなりたたせた。
外交上の決着には、大なり小なり似たような事前のすりあわせがある。双方が、たがいのずれに気づかぬふりをして、共通の理解へいたった風をよそおう。そういう妥協なしに、外交はなりたちがたい。函館の役人にも、短靴の着用をいぶかった者はいただろう。しかし、そこには目をつぶったのだと考える。
短靴を「革の足袋」と言い換える。この機転が異なった文化間の接見を成立させ、のちに英米のハリスやオールコックとの「履き替え外交」のうまい先例となった。外交の場でも、玄関先の攻防が、国と国との交渉を左右したのである。
***
関連記事〈来日した宣教師たちは、畳の上で「靴」を脱いだのか? 「意外な事実」とは〉では、16世紀に来日し「日本家屋」で暮らしていた宣教師たちは、外履きをぬいでいたのだろうか。「画像」も併せて紹介している。
※本記事は、井上章一著『日本人はなぜ家で靴を脱ぐのか 土足禁止の精神史』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。










