「皇居ラン」はいますぐ禁止すべきか? “猛スピードで駆け抜ける”“歩行者に配慮しない”は論外だが…競技ではなく“生活文化”としてのスポーツを考える
“日々走る喜び”と“自己ベスト更新”の間で
「ランニング・ハイ」という新語はとくに衝撃的だったし魅力的だった。思えば、野球部の厳しい練習に耐えて帰宅し夕飯を食べた後、「エースになるため」という強迫観念もあってひとりで“マラソン”に出るのが日課だった。近い将来の夢を思い描きながら走るその時のマラソンは、時に《夢見るような心地よい時間》だった。
(ああ、あれがランニング・ハイってやつだ)
と気づいた時、勝負とは別の、身体を動かす喜びを自覚した。
日本のジョギング・ブームは、単なるブームに終わらなかった。今も年一回以上マラソンやジョギングをする人は約758万人いるとの調査結果がある(2024年、笹川スポーツ財団調べ)。
そしてそのブームは、ジョギングでなくマラソンに移行したというべきかもしれない。フルマラソンを完走する人が年間約35万人もいる。走ることを趣味にした人の多くが、「フルマラソンを完走したい」「4時間切り、3時間切りを目指したい」という目標を抱くようになる。
多くの愛好者が、“日々走る喜び”よりも、そちらに惹かれがちな傾向がいまは強いのかもしれない。言い換えれば、多くの市民ランナーが《健康や気持ちよさのために走る》という基本スタンスと《自己ベストを目指す欲望》の狭間で葛藤し、揺れ動いているのかもしれない。
走ることは文化
「皇居の周りを走るな! 歩行者の邪魔だ、危ない」と叫ぶ人たちを、非難するわけにはいかない。事実、危ないランナーはいるようだ。歩行者に配慮せず、衝突の不安を感じさせるような走りが公道で推奨されるべきではない。グループで列を組んで走るとか、道幅の狭い場所を歩行者に配慮せず走るのもマナーに反するだろう。だが、
「だから禁止が妥当だ」
というのもまた、早計ではなかろうか。
走ることは生活文化だ。走る場所を確保することは社会が大切にすべき環境保護にも等しい。日本には皇居一周という文化がある。来日したらその場所を走りたい、そう熱望して来る外国人も多いと聞く。日本社会は、そういうスポーツ文化をあっさりと切り捨てるのか?
いや、スポーツが生活文化だという認識さえ日本にあるのかどうか怪しい。
かつて筆者の住む市にひとつしかない軟式野球場が、「ごみ処理施設の新設に伴い、資材置き場にするため数年間使用停止になる」と予告があった。調べてみると、「周辺住民にとっては騒音やほこりが舞う迷惑施設だから、それを機につぶす可能性もある」との情報もあった。私は憤慨し、市長に直接取材に行った。その時の市長の説明はいまも忘れない。「最近は一般の人の意見を十分に反映する必要がある」と前置きして彼は言った。
「野球場だと同時に18人しか楽しめない。駐車場にすれば何台の車が停められるか。公園にしたら1000人以上がそこでお弁当を食べられる。18人対1000人の論理を主張されたら、野球は勝てない世相なんです」
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