大滝詠一の才能を信じた男たち 「難解」とされたはっぴいえんど、“誰からも相手にされない状態”からミリオンを達成するまで

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そして「ナイアガラ」設立

 日本の音楽業界には、75年に小室等、吉田拓郎、井上陽水、泉谷しげるが新しいレコード会社「フォーライフレコード」を設立するなど、新たな流れが生まれていた。フォーライフ設立にも陰で尽力した三浦氏は、ベルウッド・レコードを辞め、株主兼・小室等のプロデューサーとしてフォーライフに参加。その後は「日本フォノグラム」(現ユニバーサルミュージック)に移籍し、矢野顕子や喜納昌吉などを世に出し、さらにジャパン・レコード(現徳間ジャパンコミュニケーションズ)を設立している。

 そんな時期に大滝が立ち上げたレーベルが「ナイアガラ」だった。手がけたCMソングをレコード化しようと考え、自らの楽曲を管理していたフジパシフィック音楽出版(現フジパシフィックミュージック)の朝妻一郎氏(現名誉会長)に相談したという。

 三浦氏が当時を振り返る。

「当時の音楽関係者で大滝さんの作品を本当に理解してくれていたのが、朝妻さんと『オールナイトニッポン』のプロデューサーだった亀渕昭信さん(元ニッポン放送社長)でした。ですから、僕が最初に大滝さんを手がけた時に楽曲管理をお願いしたのも朝妻さんだったのです。大滝さんは朝妻さんを心底、信頼していましたからね」

 有力な理解者に恵まれてはいたが、当時について大滝本人は、「誰からも相手にされない状態だった」と後日談で語っている。

〈確かにテレビではオン・エアーされていると言う効果はありましたが、それが大滝個人の音楽活動に結びつくものではなかったのが残念なことでした〉(「オール・アバウト・ナイアガラ」より)。

「ナイアガラ」の発足に向けて各方面との交渉に動いた朝妻氏に興味を示してきたのが、拓郎や泉谷を抱えていたフォーク系のインディーズ・レコード会社「エレック・レコード」だった。大滝本人は気乗りしなかったとも伝えられるが、ともかく同社と契約を結んだことで「ナイアガラ・レーベル」は本格的に産声を上げることになった。

 そして、記念すべき第1号のアーティストとなったのが山下達郎率いるシュガー・ベイブだった。75年4月25日にデビュー・シングル「DOWN TOWN」とアルバム「SONGS」を同時発売すると、そのおよそ1ヶ月後には、大滝の念願だった「サイダー73」「74」「75」などCMソングも収録された2枚目のソロ・アルバム「ナイアガラ・ムーン」が発売される。

 ところが、レーベル発足の矢先も矢先、エレック・レコードが放漫経営で倒産してしまう。暗礁に乗り上げてしまったナイアガラだったが、日本コロムビアが手を差し伸べ、新たに76年にレーベル契約が成立。当初の契約内容は「3年で12枚のアルバム制作契約」だったという。

 また、79年には日本コロムビアの契約が終わってしまう。再びフリーの状態になっていた大滝に声をかけたのが、朝妻氏だった。本人が当時を次のように振り返る。

「われわれ音楽出版社の仕事は、いい作品を、どうプロモートしていくかが重要ですからね。改めて確認してみると、大滝さんはどことも契約していないと言う。そこで真っ先に『CBS・ソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)にお願いしよう』と思ったのです。道理で言えば、われわれの系列であるキャニオン(現ポニーキャニオン)だったのかもしれませんが、大滝さんの作ろうとしている音楽とはギャップが大き過ぎる。で、私は、大滝さんの才能を引き出すならソニーしかないと思ったのです。出す以上は売れなきゃしょうがないですからね」。

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