76年のデビューから50周年! “ゲテモノ扱い”から“国民的スター”にのぼりつめた「ピンク・レディー」伝説 いまや“定番のお茶”を流行らせた実績も
紅白歌合戦と一騎打ち
1978年はピンク・レディー人気がピークに達した年だった。1月から11月までのテレビ出演回数は280回、キャラクター商品は36社から300種類以上を数え、Tシャツだけで140万枚以上の売上げ、10月にはテレビ東京で半生がアニメ化。12月には映画に主演(※1)。秋には「赤い羽根共同募金」のキャラクターと、第1回の「愛は地球を救う」(日本テレビ系)のチャリティーパーソナリティーを務めた。
夏には2人の地元、静岡県警のポスターに起用され、コピーは〈近ごろすこし、地球の道路はマナーしらずよ!〉。オリコン10週連続1位で、約155万枚を売り上げた「UFO」の歌詞が力づくでトレースされているところに、当時の威勢が感じられよう(※2)。なにしろこの時期、所属事務所が取引先に渡す、これらのデータも集めた彼女たちの資料の名前は、以下だったのである。
「ピンク・レディー・ギネス」
年末の12月31日には、「UFO」で、日本レコード大賞を獲得――しかし、この日を境に、ピンク・レディーの勢いはペースダウンして行く。約2カ月前に出た報道が発端だった。
〈紅白出場辞退〉(「スポーツニッポン」1978年11月2日付、他)
この年の10月13日、東京・葛飾区の盲学校を訪れたミーとケイは、生徒たちが自らの曲を振り付けで歌ってくれたことに感動。「コンサートを開き、彼らを招待したい」としていたが、そのために空いている日程が大晦日しかなかったので、と事務所側が説明。すると、取材が集中した盲学校側は、「招待も含め、そんな話は全然聞いてない」と困惑。結局、日本テレビにより、大晦日のコンサートが紅白の裏で生中継されることとなった。
しかし大みそか当日、TBSで行われたレコード大賞授賞式に2人はしっかり登壇しており、「紅白に一泡吹かせたかった日本テレビ側と所属事務所の組み上げた企画では?」と見られた。会見で、「私たちだけが幸せなのは良くない」と涙を見せた、2人が抱く福祉への気持ちは本物だったが、周囲の状況で美談仕立てとされる報道もあり、ピンク・レディーへの注目は漸減して行く。
翌1979年からは一転、アメリカ進出にチャレンジする。英語詞のシングルはビルボードで37位まで上昇。米の3大ネックワーク、NBCで毎週金曜夜8時にレギュラー番組も持つなど健闘したが、長く続かなかった。この頃のピンク・レディーは、ドレス姿や(TVでの)入浴シーン等、アダルトな魅力を打ち出そうとしていた。キャリアを積み、活動する国を変えての路線変更でもあったが、受容には至らなかった。
そして1981年3月31日、後楽園球場にて解散ライブ。この模様は日本テレビで生中継されたが、前段にバトントワリングやブラスバンド、ファン代表の行進があり、「ミーとケイの入場は、午後3時6分となります」とアナウンスされるなど、完全にテレビの放送時間と合致させた仕様で、CMに合わせて曲はブツ切れに。コンサートの最後、感極まった2人は抱き合うのだが、陰で放送時間を気にするテレビ関係者が「早く『さようなら』の挨拶を」と急かす姿も報じられた。
翌日は〈テレビのワク内に閉じ込められ、ピンクは最後まで“商品”だった〉(スポーツニッポン)など、前向きとはいえない報道が相次いだ。ただ、阿久悠が贈ったラストシングル「OH!」の歌詞が、彼女たちが世間に与え続けて来たものを反語的に物語っていた。
〈この世に驚きやときめきがなくなれば 季節はいつも冬を動かない〉
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