「難病に立ち向かう姿は政治家当時と同じだった」 ALSで亡くなった前衆院議員の松本剛明さんの素顔を議員仲間が明かす
物故者を取り上げてその生涯を振り返るコラム「墓碑銘」は、開始から半世紀となる週刊新潮の超長期連載。今回は7月27日に亡くなった、前衆院議員の松本剛明さんを取り上げる。
***
【写真を見る】高市首相だけじゃない… 安倍首相も使った“プロパガンダの定番テクニック”
外相や総務相を歴任した松本剛明(たけあき)氏は、役割は果たせども目立たない政治家だった。だが、衆院議員在職25年を超えたベテランで、民主党と、転じた先の自民党の双方で大臣に登用される稀有(けう)な経験をしている。
民主党の元参院議員で現在は京都市長の松井孝治氏は振り返る。
「政界で盟友と呼べる人物の筆頭でした。剛明さんは裏方として汗をかいて、手柄は人に差し上げる。剛明さんのおかげですと言うと、“そんなこともありましたかな”ととぼけたりする。政治には理想と現実的な思考の双方が必要との信念を持ち、その狭間で格闘を続けていました。理想を唱えても、実現までの具体的工程やどんな調整が要るかを思い描いている。実務派でも強引な手段は選ばない。与党と野党の関係も、相手の弱い所を突いて揚げ足を取るより、政策論争でいこうよとの姿勢を貫いていました」
1959年生まれ。初代首相、伊藤博文の玄孫だ。自民党衆院議員で防衛庁長官を務めた父の十郎氏と同様、東大法学部に進み、82年、日本興業銀行に入行した。87年に東大の同級生、孝子氏と結婚。当時の自民党総務会長、安倍晋太郎氏と洋子夫人が仲人を務めて門出を祝った。
「一見ぶっきらぼうに見えますが……」
2000年の衆院選で民主党の公認を受け、地元兵庫・姫路の小選挙区から出馬して初当選。党の成長期に政策通として頭角を現す。
「国家公務員制度改革基本法案の与野党修正協議では、対立や妥協、先送りではなく、こちらも案を出して一致点、合意を見いだしていった。交渉、調整力を目のあたりにしました」(松井氏)
09年に民主党が政権交代を果たした際も冷静だった。
党内の議員グループ「青山会」を率いていた樽床伸二氏は思い返す。
「一見ぶっきらぼうに見えますが、仲間内ではざっくばらんな人です。トップに立つより、番頭のような立場が合い、助言は的確で支えてくれた。ものおじせず、誰にでもはっきり発言する。筋を通していました」
党内の実力者の勢力争いとは一定の距離を保ち、淡々としていたという。
「理想が先行して政治主導に行き過ぎてはいけない。官僚をうまく活用すればいいのでありバランスが必要だ、と官僚との関係をよく考えていました」(松井氏)
菅直人政権下の11年、外相に。直後に東日本大震災が発生。存在感が薄いなどと非難の矢面に立たされた。翌12年、自民党が政権を奪還している。
「松本さんは保守の二大政党が必要で、両党が競い合い切磋琢磨してこそ政治は良い方向に変化できると考えていた。問題点を直し再び政権担当能力をつけて自民党と競えばいい、と清々としていた」(樽床氏)
だが、民主党は対立を選ぶ。安全保障関連法に対案を出すことなく反対に終始した党に松本氏は見切りをつけ、15年、離党し無所属に。
「代わりのいない才能を失った」
民主党時代の松本氏を知る前衆院議員、松木謙公氏は言う。
「政治に“もし”はないとはいえ、松本さんが民主党に残っていればその後の流れは違っていたはず。代わりのいない才能を失った」
2年後、自民党に入党。麻生太郎氏のグループに所属した。岸田文雄政権で22年以来、2度にわたり総務相を務めたのは麻生氏からの信頼の厚さゆえとされる。
昨年10月の首班指名で議場に車椅子に乗って現れた。今年1月、体調不良を理由に次の衆院選への出馬断念を発表する。7月27日、筋萎縮性側索硬化症(ALS)のため、67歳で逝去。全身の筋肉が衰え、根治的な治療法はない難病である。
「政界引退を決意した時、話す代わりにメールをくれました。自分に厳しく難病と分かっていても闘っていました。現実を受け入れて必ず解決策があると立ち向かう姿は、政治家当時と変わりませんでした」(松井氏)


