アントニオ猪木を「彼はテキサス人以上のガッツマンさ」と激賞…テーマ曲「スピニング・トーホールド」で日本中を沸かせた“最強レスラー”の胸を熱くする名言

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ドリーのベストバウト

 では、そのドリーの、日本におけるベストバウトは何なのか? ドリー自身が選んだわけではないが、あるレスラーの回想がある。

〈今、改めて自分の中でベストバウトはどの試合だったか、目を瞑って振り返ってみると、真っ先に頭に浮かんで来る試合がある〉(「週刊大衆」2021年1月4日)

 発言者はアントニオ猪木。猪木が自選のベストバウトの筆頭に、ドリー戦を挙げたのである。しかも掲載されたコーナー名は「炎の闘魂プロレス30番勝負」で、主旨にのっとり、連載1回目がドリー戦だったが、1週では物足りないのか、ここから計3週にわたり、ドリー戦の回顧が続いていた。

 試合がおこなわれたのは、前出のように1969年12月2日(大阪府立体育会館)。60分3本勝負のNWA世界戦だったが、挑戦者の猪木は、試合前から手負いだった。前日の試合でボディプレスを放った際、勢いがつきすぎ、左手の中指を骨折、薬指を脱臼していた。がっちりとテーピングをし、痛み止めを打ってリングに登場、実はリングサイドで、既に知り合っていた女優・倍賞美津子も観戦していた。翌日タイトルに挑戦する馬場も通路から観ている。すると、指のぶ厚いテーピングに、セコンドかつ父親のドリー・ファンク・シニアが難癖をつけた。

「凶器でも入ってるんじゃないか? テーピングは外せよ」

 猪木が正直に指の負傷を告げ、レフェリーが通訳すると、当事者のドリーが応じた。

「OK。そのままでいい」

 午後8時23分、ゴング。地味ながら力強い足攻め中心の攻防が続いたが、20分過ぎ、セコンドの指示もあり、ドリーが左手を攻め始める。苦悶の猪木の表情に場内はエキサイトし、ドリーやセコンドのハーリー・レイスにミカンや弁当箱が投げられる。怒り狂ったファンがリングサイドに詰め寄り、日本側のセコンドが必死に止める場面も。すると、ドリーは猪木から体を離す。猪木も意図を感じたのか、ドリーと軽く握手をかわす。父、シニアが不満気に左手への攻撃の続行を促すが、ドリーはそちらを向くと、父に軽くかぶりを振った。

 その後はラフファイトを交えながらも、素晴らしいテクニックの攻防。バックドロップ、逆エビ固め、ダブルアームスープレックス、エアプレンスピン……。60分1本勝負のところ、55分が経過し、そこからは1分ごとにリングアナが残り時間をアナウンス。場内はもう興奮の坩堝だ。ドロップキックの相打ち。ドリーは逆さ押さえ込みに、頭突きまで見せ、ブレーンバスターを狙うが、その背後に猪木は降り立ち、コブラツイスト! だが、直後に、タイムアップのゴングが鳴った。解説の元レスラー、芳の里が、「う~ん、力入ったよ」と言って腰を下ろした。いつの間にか立ち上がって観ていたのだった。

 60分1本勝負だったが、ノーフォールのまま、時間切れ引き分け。猪木は述懐する。

〈重要なのは決着がつくということだけではなく、どのように60分を戦ったか。そしてどのように引き分けたか、そのプロセスなのだ〉〈俺が見せたのは「ケガを恐れない過激なプロレス」「正真正銘のストロングスタイル」だった〉(「週刊大衆」2021年1月25日号)

 王者サイドの試合後の模様も紹介しておきたい。日本式に、皆で「バンザイ!」をすると、シニアが、ケガをおして出て来た猪木を評した。

「まったく、猪木はカミカゼだ」

「カミカゼって何だ?」(ドリー)

「イッツ・クレイジー」

 戦時中に従軍していた、シニアらしい一言だった。

「ノー」

 ドリーは返し、最大級の賛辞を猪木に贈った。

「彼はカミカゼなんかじゃない。テキサス人以上のガッツマンさ」

 2人は翌年再戦も、これもまた60分時間切れの引き分け。そして1971年を最後に、タッグでも手合わせはなかった。それから37年経った2008年、ドリーは新聞社のインタビューに、こう答えている。

〈アントニオ猪木、ジャック・ブリスコらが好敵手だった〉(毎日新聞。2008年2月27日付)

ファンク一家の墓碑銘

 後年は、「好きなことは辞めないべき。人生は走り続けることに意味があるから」を口癖に現役を続けたドリーは2024年8月、西村修をパートナーに大仁田厚と日本で電流爆破マッチを敢行。御年83才だったが、試合後は笑みも交え、語った。

「爆破とかはそんなに意味がない。私にとって大事なのは、戦う相手が誰かだから」

 そして、言った。

「日本は忘れられない。こんな素晴らしい国はない。ファンク一家の歴史の全ては日本のファンに支えられて来た。私たちも日本のファンが大好きです」

 ファンク一家の墓は、テキサス州アマリロにある。ドリーも遠からず、ここに埋葬されることになる。父シニアの墓標には、以下の文言が刻まれている。

〈DO NOT STAND AT MY GRAVE AND CRY. I AM NOT THERE. I DID NOT DIE〉(※2)

 それは、アメリカで1930年代より口伝され、日本でも2003年に知れ渡った、有名な詩だった。

〈私のお墓の前で泣かないで下さい。そこに私はいません。眠ってなんかいません〉……(新井満訳。「千の風になって」)

 プロレスを愛したドリーという風が、日本のリングを今後も優しく包みますように。

※1:『ロサンゼルス・タイムズ』1997年4月。拙訳。

※2:墓標では正式にはNOTのNと、MYのMが小文字になっている。また、「千の風になって」の訳に使われた歌詞は、CRYがWEEP、DIEがSLEEPになっているが、同詩は明確なオリジナルが存在せず、人々が自分の文体や言葉で表現して来たため、互いにその一例とみなされている。

瑞佐富郎
プロレス&格闘技ライター。早稲田大学政治経済学部卒。現在、10数冊目の近著「10・9プロレスのいちばん熱い日」(スタンダーズ)が重版出来中。

デイリー新潮編集部

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