スキーCMで大ヒットした「虹の都へ」 高野寛を“宅録青年”から“ヒット歌手”に変えた出会い
さまざまな面で“恵まれた”「虹の都へ」
高野のキャリアにおける最大のヒットとなったシングル「虹の都へ」も、ラングレンのプロデュースだ。
「この曲は『CM用に先に仕上げてくれ』との依頼があったので、1度、日本でレコーディングしているんです。その後に渡米し、トッドのプロデュースで録り直しました。CMで使用された音源は、米国でレコーディングしたものに途中で差し替えられました。トッドの音源をたくさん聴いて育ったので、自分の音がトッドの音に変わっていくワクワク感を経験し、いいレコーディングができた手応えがありました」
プロデューサーとしてのラングレンは、高橋幸宏とは真逆のタイプだったという。
「幸宏さんはものすごく緻密に作り込み、時間をかける。トッドは完璧主義なパブリックイメージがあるのに、仕事をしてみると割とラフで。『8時間以上は集中力が続かないからやめた方がいい』『選択肢は無限にあり、迷ってばかりいたらいつまでも終わらない。とにかく決断を早くして先に進むことが大事』と、お昼過ぎに始めて晩ごはん前には終わるような、健康的なレコーディングでした」
「虹の都へ」の発売は1990年2月だが、前年末からすでに手応えを感じていたという。
「年越しイベントで歌った際、すでにCMで流れていたためか、結構認知されていて、初めてのお客さんの間でも盛り上がっているのを感じました。CMで流れたサビのメロディが、強い印象を残せる曲だったんだな、と」
件のCMとは、MIZUNOのスキーウェア「ケルビンサーモ」のもの。MIZUNOが「ねるとん紅鯨団」(フジテレビ系)を一社提供していたことから、高視聴率番組で繰り返し流れ、多くの人の耳に残った。
「『太陽しか知らない 二人だけの秘密』というサビは、“紫外線カット機能があるウェアなので『太陽』というワードを入れてほしい”というリクエストがなければ、生まれなかった。ヒット曲を作ろうというよりは、純粋なクライアントワークとしてできた曲なんです」
曲が独り歩きしたと初めて実感できる作品でもあった。
「当時はスキーが流行っていて、意図せずトレンディな波に乗ってしまったというか。合コンに行ったりすることもなく、ひたすら宅録していて、自分の中にはキラキラしたバブリーな青春の1ページなど全くなかったので……。 マジョリティのカルチャーの中で自分の曲が受け入れられていくということが、不思議にすら思えました」
1990年10月に発売された5枚目のシングル「ベステン ダンク」もラングレンプロデュースで、やはりスキーウェアのCM曲となり、高野の代表曲となった。
坂本龍一のワールドツアー参加のためスタッフを説得
日本・香港・欧州をめぐる坂本龍一のワールドツアーにギタリストで参加しないかとのオファーが舞い込んだのは1994年9月のことだった。当時、その年の6月に発売された坂本のアルバム「スウィート・リヴェンジ」に高野がギターとボーカルで参加したこと、10月発売予定だった高野のシングル「夢の中で会えるでしょう」のプロデュースを坂本が務めた縁はあったが、急なオファーだった。予定されていたブラジル人ギタリストが来日できず、白羽の矢が立ったのだ。
「『夢の中で~』の発売とツアーが重なっていたので、周囲は参加に反対でした。でもやってみたい気持ちも強く、幸宏さんに相談したら、『ワールドツアーなんて一生に何度もできることじゃないから絶対にやった方がいい』と。普段とはちがう強い口調でした。その言葉に励まされ、スタッフ一人一人を説得して回り、いろんなことを調整して、何とか参加できたんです」
10月に行われた国内ツアー中は、他のメンバーが移動する間に東京に戻り、自身の仕事を済ませて再び合流するという多忙な日々を送った。そして海外ツアーでは、
「欧州は寝台付きのバスで会場を回り、英国から海底トンネルを通ってフランスへ。ライブが終わると会場でシャワーを浴びてからバスに乗り込み、目覚めると次の会場という感じでした。ホテルに泊まったのは2、3日だけでした」
記憶に残るのは、映画「ラストエンペラー」に出演したことで坂本の人気がとりわけ高かったイタリア、クラシック系の聴衆が多く物静かだった英ハマースミス・オデオン(現ハマースミス・アポロ)、熱狂的な若者たちからアンコールに「YMO! YMO!」と大きな掛け声が掛かったフランス・パリ……。会場によって盛り上がる曲のタイプも異なり、高橋の言葉通り貴重な経験となった。
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