スキーCMで大ヒットした「虹の都へ」 高野寛を“宅録青年”から“ヒット歌手”に変えた出会い
第1回【絶対プロになれないと思っていたら…「歌ってみたら?」高橋幸宏に見いだされた高野寛、デビューまでの軌跡】のつづき
1988年10月にシングル「See You Again」でデビューした高野寛(61)だったが、3枚目のシングルまでオリコンではチャート圏外が続いた。世間が彼を認知したのは1990年2月に発売した4枚目のシングル「虹の都へ」だった。
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ソロで未経験のライブ MCは原稿で
デビュー翌年の1989年には2度の全国ソロツアーを敢行した。アマチュア時代を通じ、ソロでライブをした経験はなかった。
「実力以上のポジションを最初から用意してもらいました。最初はただ歌い、演奏するだけ。MCでも何をしゃべればいいか分からないから、事前に原稿を書いて用意していました。ツアーメンバーは、自分より年上の人ばかり。ライブのイロハを先輩から学んでいきました」
レコーディングと違い、ライブは誤魔化しが効かない。ステージを1~2時間持たせる体力も必要だ。
「シンガーとしての基本の基本を現場で学び、少しずつ楽しめるようになってきた。ライブというものを徐々に自分の中に落とし込んでゆく、そんな時期でした」
トッド・ラングレンとの出会い
1989年には、高橋幸宏に並ぶ大きな出会いがあった。米ミュージシャンのトッド・ラングレンだ。この時、日本人アーティストをプロデュースしたいと日本のさまざまなレーベルに接触しており、最終的に高野とバンド「LÄ-PPISCH」が選ばれた。高野は大学時代にラングレンの来日コンサートを観に行っており、ソングライターとして最も影響を受けた存在でもあった。
「トッドは日本の音楽業界にもファンが多い。いろんな音源が彼の手元に資料として集められた中で、僕の音源を気に入ってくれて。ずっと遠い憧れだったトッドとレコーディングできる幸運に本当にびっくりでした。当時進めていた2枚目のアルバムのレコーディングには間に合わなそうだったので、せめてシングルを作れないかと、1度来日してもらったんです」
ラングレンがプロデュースしたのが3枚目のシングル「ある日、駅で」。セールス面での結果は出なかったが、このときのラングレンの言葉は今も座右の銘にしていると語る。
「『君は多分僕と同じタイプ。多重録音で作るのが好きだと思うけど、僕らみたいなアーティストはツアーに出て歌を鍛えないとダメだよ』って。デビューから間がなく、ツアーは決して楽ではありませんでしたが、その言葉をずっと胸に刻んで、やるしかないと思いました」
デビューから1年半で3枚のオリジナルアルバムを発売し、そのほぼ全楽曲の作詞・作曲・編曲を手掛けた。全国ツアーやラジオのレギュラー出演に忙殺される中で、時間を見つけては曲作りに取り組んだ。
「全国ツアーを2周やり終えた後の1989年秋にアメリカに行って、トッドとアルバムのレコーディングをする段取りでしたが、渡米前の段階で曲が6割ぐらいしかできてなかったんです。天国と地獄が同時に来た気持ちでニューヨーク州のウッドストックにあったスタジオに向かいましたが、僕の前にレコーディングしていたアーティストの作業が押しており、結局、1週間待機。その間に何とか曲を仕上げることができました」
レコーディングは40日間に及んだ。マンハッタン北方の自然豊かなリゾート地で、夜には満天の星を見上げられる地でリフレッシュしながら、一切の情報を遮断して曲作りに集中できたと振り返る。
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