「日本は同調圧力が強くて息苦しい」という日本人が気づいていない「奇妙な矛盾」

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「同調圧力が息苦しい」――そうした不満はいまや誰もが口にする。たとえばコロナ禍では、同調圧力によって、いつまでもマスクが外せず、外食を楽しむこともできなかった、という意見もあった。

 京都大学名誉教授の佐伯啓思氏は新刊『日本人の精神I 権威と空気の構造』(新潮選書)で、実は「同調圧力」批判そのものが、「同質社会」に取り込まれていると指摘する。以下、同書の一部を再編集して紹介する。

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奇妙な自己批評

「日本は同質社会で同調圧力が働く」とは、外国人による日本評というわけでもない。日本人自身が自己を評する言葉なのである。どうみてもこれはどこか奇妙ではなかろうか。「同調圧力」が奇妙なのではなく、「自分は同調圧力の中にいる」という言い方が奇妙なのである。

 この言い方は、ほとんどの場合、日本社会は窮屈だという苦情の表明だ。だがそうだとすると、この人は、いかにも部外者のような顔をして得々と苦言を呈していることになる。あたかも日本社会に初めて直面したかのような物言いだ。ところが実際には、彼はしっかりと同調社会日本に生息している。ということは、実はちゃんと同調圧力に同化しているのである。

 もともと「同調圧力」は強制ではないのだから、別に従う必要もない。いやなら「自分流」でやればよい。政府が監視しているわけでもない。逮捕されるわけでもない。それにもかかわらず、「日本は同調圧力で窮屈だ」という「日本人」はあちこちにいる。

新たな「甘えの構造」

 自分からわざわざチャットやフェイスブック等に参加しながら、同調圧力があって嫌な目にあうなどという人にもよく出会う。やめればよいのにといえば、いや、やめれば仲間外れにされるという。もしかしたら、ほとんどの日本人がそう言っている可能性さえありそうだ。

 これはなかなか興味深い現象ではなかろうか。なぜなら、この「日本の同調圧力は息苦しい、オレはもっと個性的で自由に生きたいんだ」という典型的な苦言そのものが一種の弁明になって、日本の同質社会はしっかりと作動してゆくようにも思われるからだ。確かにこれもまた日本人の「甘えの構造」というほかないであろう。

それなりの、そこそこの生活

 この問題をもう少し突き詰めてみよう。「日本は同調圧力があって生きにくい」という人はおおよそ次のような事情のもとにあるのだろう。

 日本では、個人よりも社会がまず存在している。そしてたいていの人はごく自然にこの社会のなかに生息しており、日本社会に決定的な不満や不信があるわけでもない。「普通の人々」はそれなりの生活に満足し、そこそこの生活を送っている。

 しかし、いかなる社会にあっても、人生、万事順風というわけにはいかず、窮屈で理不尽な目にもあうだろう。そこで、自分はもっとよい生活をしたい、もっと社会から評価されたい、こんなはずではない、と思う者がでてくる。人はどこにいても多かれ少なかれこの種の不満をもつ。

近代が生む不満

 そこに、「近代という時代」の特質がからんでくる。近代とはこの種の不平不満を大量発生させる巨大装置であった。個人の能力の最大限の発揮と、幸福の最大限度の追求をまるで義務のように喧伝し、それができなければ無能といわんばかりの時代なのである。自己実現こそが「近代社会」の福音なのである。

 ところが自分はどうやら自己実現できていないと気付くとしよう。すると、それは社会に問題があるからだと言う。日本社会が個人の意識や個性を重んじないからだと言い出す。自分は、社会によって抑圧されている、と感じる。ここに「同調圧力」が登場する。自分はこの「同調圧力」になじめず、社会からはみ出しているというのだ。

 しかし、この「圧力」とは一体何なのであろうか。実際には、彼がただ窮屈だと感じているだけのことなのではないのか。

同質社会が前提の「私」と「個性」

 日本では、「私」は「そこにある社会」の中に生まれ落ちる。これはあまりに当然のことなので、特に「私」を意識することもない。「私」は主語でも主体でもない。そこで、このような「すでにそこにある社会」においてあえて自我を確認しようとすれば、まず一度、自分を社会から切り離し、社会を自己の外部において、自己に対立するものとして認識する。そうしないと「私」がでてこないのである。

 ということは、自己に対立する「社会」とは、まず自己が取り除かれて、残りの「皆さん」は同質的と見なされることになる。かくて、「社会」は自動的に「同質社会」になる。「同質社会」や「同調圧力」というものがなければ、「私」や「個性」も実は存在しないのであり、「私」も「個性」も、同質社会を前提とし、同質社会を必要とする、ということになるだろう。

 かくて、日本では、「私」を定義しようと思えば、自動的に「同質社会」が必要とされる。この時、「私」は、同質社会の外部にいるかのように装うが、実は「私」はあくまでこの社会の内側にいる。決して外国人のような本当の部外者なわけではない。それはもとをただせば、日本では、「社会はそこにあるもの」であって、誰もが、「社会のなかにあるもの」として生まれるからだ。

 結局、「私」は社会の外に立つのではなく、同じ社会に含まれた「個性」である、という矛盾に陥るのだ。

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※本記事は、佐伯啓思著『日本人の精神I 権威と空気の構造』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。

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