「戦争帰りの老ホストが、客に“日本男児かくあるべし”と…」生バンドに社交ダンス、リーゼント…歴30年のベテランが語る“平成ホスト”の異世界
「第1志望の国公立大学に入れなくてね。滑り止めの私立・関西学院大に合格したけど、兄貴も私立。親が“2人分の学費は払えんわ~”とお手上げになったときに、テレビ番組でホストという職業を知ったんですよ」
苦笑いしながら若き日を振り返るのは美島光司さん(52)。現在は無職ヒモだが、伝説のホストクラブ「愛本店」に長年在籍しただけあり「普通じゃない感」は隠せない。約30年に渡った自身のホスト人生を振り返る。
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【別人級】リーゼントとダブルのスーツのギラギラ・平成初期ホスト→盛髪がお似合いの平成後期ホストへ!光司さんの「どんどん若返る」ホスト時代
「関西ローカルの深夜番組で、夜の世界の紹介コーナーでした」
当時「ホストマン」と名乗っていたスーツ姿の男たちが、きらびやかな空間で女性たちを相手にする様子が、まだ“大人の男女に憧れるだけ”の大学生だった光司さんの目に焼きついた。
「こんなにかっこいい人たちがおるんや、と驚きました。しかも稼げると。当時は大阪在住。さっそく翌日(繁華街の)ミナミをうろうろしましたよ。“どこにホストっておるんやろ? 自分もなりたいわぁ”って」(光司さん、以下同)
インターネットはおろか、携帯電話すら普及していない時代。情報を調べる術もなく、それらしい店の看板を探して、エビス橋のあたりを歩き回った。
生バンドに合わせ社交ダンスを…
最初に入店したのは、大阪・ミナミのクラブ。光司さんによると、現在の形態とは似て否なるものだったという。
「当時の“大阪ホスト”たちはスーツにネクタイ、リーゼント。生バンドの演奏に合わせて社交ダンスを踊れないとダメ。ホストは店内でお客様をお待ちして、絶対にキャッチなどしない。そんな品格ある場所でした。外でナンパめいた客引きをするような店は『ホストパブ』と呼ばれて、つまり“僕らとは別物”だという意識があった」
光司さんがまず度肝を抜かれたのは、そこで働くホストたちの年齢だった。ナンバーワンは当たり前のように40歳オーバーで、先輩の中には昭和ひと桁生まれも。
「国民学校世代でした。接客のテーブルにつくたびに、日本男児かくあるべしって話になって、お客さんの顔がみるみるうちに曇っていく(笑)。そんな時代だったんです」
さらに、60代や70代のホストも数人在籍していた。
「なんと先輩ホストには、戦争帰りの元軍人さんもいました。僕は当時19、20歳ですから、完全に“おじいちゃんと孫”みたいな歳の差でしたね」
入店後、新人として課せられたノルマは、想像を絶する厳しさだった。
「軍隊みたいなもんでしたよ、ほんまに」
当時の給与体系は日当3000円。当時の最低賃金は700円程度だったので、今の感覚だと4500円~5000円くらいの日給だろうか。そこから少しずつ先輩に気に入られ、「ヘルプ」としてテーブルに呼ばれるたび1000円が加算されていく仕組みだった。
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