「下手になったら人気が出た」志磨遼平が明かす毛皮のマリーズ解散、ドレスコーズ結成の舞台裏
この現状に満足してたら「ライブハウスから出られない」
高校を辞め、突然上京する形で突き進んだ一つの到達点がこのインディーデビューだった。ある時、スタッフに、自身らのバンドの行く末を聞いたこともあった。
「ベテランのローディー(※ライブの機材搬入から本番中のサポートまでを一手に引き受けるスタッフのこと)さんで、実は今もお世話になっている人なんですが、最初のアルバムが出たばかりの頃に『僕ら、有名になれますかね?』って何気なく聞いたら『大丈夫だよ、なれるよ』って言ってくれたことがあったんです。それが妙に心強くて、それからは何か上手くいかないことがあっても『あの人が大丈夫って言ったから大丈夫だろう』と思い込んで前に進むことができました」
ベテランローディーの“予言”が当たったのはご存じのとおり。各地でツアーを行えば盛況で、話題作を世に送り出しながら、2010年には日本コロムビアからメジャーデビューを果たした。だが、志磨の中には渦巻いている思いがあったという。
「このままだとずっとライブハウスから出れないんじゃないかという焦りもあった。今、いくらちやほやされても、自分の目標はここじゃないぞ、と。いつも必死にもがいて、メンバーも僕の要求に必死に食らいついてくれたんですが、結果的にすごく負担をかけてしまって。ライブ中もメンバーに文句を言ったり、それが逆に評判を呼んだり、すごくいびつな形でどんどんお客さんが増えていくという、アンビバレントな(矛盾した)状態でした」
2年なら何とかします
メジャーデビュー前からバンドは話題になっていたが、上手くいっているように見えても、志磨自身の中では「これでいいのか」という思いがあった。ステージ上でのメンバーの喧嘩や、「やってられるか!」と公演を放棄するような素振りが逆に喜ばれるなどして「バンドがめちゃくちゃになるところを見てやろうとお客さんが集まる」状態だった、と振り返る。
メジャーデビュー前の2009年に出したアルバム「Gloomy」に当時の思いは現れている。日本コロムビアとの契約のきっかけにもなった作品だが、「暗い」とか「陰鬱な」を意味するタイトルは、志磨の内情を表していた。
「『Gloomy』の時点で毛皮のマリーズはもう長くない、と感じていたんです。なのでメジャーレーベルからお誘いがあったときにも、『2年なら何とかします』と僕のほうから期限を決めた上で契約しました」
最初からゴールありきで、そこに向けてどこまで高みに届くかの2年弱……2011年いっぱいで「毛皮のマリーズ」は解散した。
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