エンタメ情報誌「ぴあ」復活! 創業者「矢内廣社長」インタビュー AI時代にあえて“紙の雑誌”をパラパラとめくって探す「偶然の出会い」の魅力

エンタメ

  • ブックマーク

“紙”の時代は終わったので……

 書店で本や雑誌を売ってもらうには、取次を通して配本してもらわなければならない。しかし取次は、安定して定期刊行できる版元でないと、扱ってくれない。無名の学生がつくったミニコミ誌は、とうてい無理だった。

 しかし矢内は、持ち前の行動力を発揮し、紀伊國屋書店の田辺茂一社長、日本キリスト教書販売の中村義治専務(のちの銀座・教文館社長)といった大先輩の推薦を得て、都内89店の書店に直接納入することが可能となる。創刊号は1万部刷って2000部しか売れなかったが、4年後には8万部を突破。1974年に法人化し、10万部を突破。直販店舗は首都圏1600店にまで増え、毎月、トラック隊が3~4日かけて配っていた。

「ぴあ」が人気となったもうひとつの理由は、なんといても、及川正通の表紙イラストだった。人物をリアルに、かつユーモアたっぷりにデフォルメしていた。中には、映画のテーマを見事に描いて、本家のポスターを凌ぐようなアーティスティックなイラストもあった。

〈「矢内さんはね、少々くたびれた紺の背広姿、小脇に風呂敷包みを抱えてやってきたんですよ。(略)いざ、矢内さんが口を開くと、情報誌を通しての、いろいろな夢と希望と企画の数々が飛び出してきた、熱かったねえ。」〉(『ぴあ』2011年8月4・18日合併号=最終号、及川正通インタビューより)

 この及川正通の表紙イラストは1975年9月号、映画「フレンチ・コネクション2」のジン・ハックマンからはじまり、休刊まで1300点以上を描きつづけ、「同一雑誌の表紙を最も長く描き続けたイラストレーター」として、ギネス世界記録に認定されている(休刊後もアプリ版にイラストを寄せている)。

 やがて取次から、正式に扱いたいとの連絡が来て、トラック配本は1976年9月が最後となった。毎月、仲間たちが、自分や家の車を使って自前配本を手伝ってくれた。だがもう、来月からはこの苦労もしなくてよいのだ。矢内は、配本終了後、みんなに集まってもらった。

〈矢内はみんなに深々と頭を下げた。本当に感謝の気持ちでいっぱいだった。みんなも目を潤ませている。〉(掛尾良夫『「ぴあ」の時代』小学館文庫より)

 その後、「ぴあ」は、自主制作映画祭「ぴあフィルムフェスティバル」(PFF)を開催、日本映画界に多くの若い才能を送り込むことになる。また、チケット販売事業に進出。関西版や中部版なども発刊。日本を代表する、エンタメ総合サービス企業となるのである。

 だが、デジタル盛況の時代となり、先述のように“紙”の「ぴあ」は2011年7月に休刊となる。

「たしかにいまは、どんな情報でもネットで入手できます。よって“紙”の時代は終わったということで、休刊にしました」

 と、「ぴあ」初代編集長で、創業者の矢内廣社長が語る。以下は、矢内社長の話である。

次ページ:「とぶ!」の意味は……

前へ 1 2 3 4 次へ

[2/4ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。