『ゴジラ』は世相を反映する スタッフ、俳優と戦争の深い縁

映画 2016年7月29日掲載

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「エヴァンゲリオン」の庵野秀明監督の脚本、総監督による『シン・ゴジラ』が話題になっていることもあり、「ゴジラ」への関心がまた高まっている。

 1954年に公開された第1作の『ゴジラ』は、日本初の本格怪獣映画であり、また特撮映画の傑作として今でも内外で高い評価を得ている。

 戦後10年も経たない時期に公開された『ゴジラ』は、ストーリーにも当時の時代状況が反映されているということはよく指摘されている。そもそも水爆実験で生まれた、という設定そのものが、当時の核への潜在的恐怖を表現していたものであった。

 SF評論家である長山靖生氏は、新著『ゴジラとエヴァンゲリオン』の中で、「ゴジラは敗戦とその後の冷戦を背負っている」と述べている。

 さらに同書では、『ゴジラ』と戦争との“縁”にまつわるエピソードが紹介されているので、いくつかご紹介してみよう(以下、『ゴジラとエヴァンゲリオン』より)。

『シン・ゴジラ』公式サイトより


 スタッフとしては、まず、特撮を担った円谷英二。戦前から活動写真のカメラマンをつとめていた彼は、1939年には陸軍航空本部嘱託として、飛行兵教育用の教材映画を撮っている。かつては飛行機学校で学んだ経験もあるため、彼の飛行撮影は抜群だったのだ。

 それ以外にも、数多くの戦争映画を撮影したが、その経験が祟って、戦後しばらくはGHQによって公職追放指定を受けて、その指定解除まではささやかな仕事しかできなかった。

 監督の本田猪四郎は兵役経験者だった。2度召集され、終戦は中国で迎えている。出兵中に彼の両親や兄弟はみな死亡していた。

『ゴジラ』以降、怪獣映画にはなくてはならない存在となった平田昭彦は、もともと軍人志望で陸軍士官学校出身で、あと少しで戦地に行くはずだった。敗戦後、東大法学部に進学している。

 また、宝田明は1934年生まれで終戦時には子どもだったので兵役には出ていないが、父が南満州鉄道職員で、大陸からの引揚者だった。

 そして、主役であるゴジラのスーツアクターを務めた中島春雄は、1943年に14歳で海軍航空技術廠に入営し、養成員(予科練)として発着機部に配属されていた。パイロット志望だった。

 終戦から10年も経っていないので、多くの成年男子が何らかの形で戦争と関係があったことは不思議ではないが、そのことが初期の「ゴジラ」に深みを与えているのかもしれない。

 その後、日本が敗戦から立ち直り、高度成長を迎えるにつれて、「ゴジラ」シリーズから暗い恐怖の影は薄くなっていく。しまいには、ゴジラは「シェー」(当時流行していたギャグ)をするようにまでなってしまうのだ。

 大震災を経て、テロの時代に作られた『シン・ゴジラ』。この新作にはどのように時代の空気は反映されているのだろうか。

デイリー新潮編集部