秀吉と秀長は「戦国時代では異例の関係」「二人の女性関係は正反対」 『豊臣兄弟!』を楽しむための七つの視点を専門家が解説

エンタメ

  • ブックマーク

戦国に異例過ぎた兄弟

 前置きが長くなった。七つの極意の1番目は、戦国時代にはめて異例の兄弟二人三脚である。

 そもそも武将は、血を分けているがゆえに自分に代わりうる兄弟を警戒する、と相場は決まっていた。戦国以前も、源頼朝は周知のとおり、弟の範頼や義経を粛清した。足利尊氏は弟の直義と共存したが、しまいには対立し、直義は失脚して謎の死を遂げた。

 戦国時代は兄弟の対立は枚挙にいとまがないが、中でも織田信長の例が分かりやすい。「豊臣兄弟!」でも描写されたが、信長は桶狭間合戦の2年前の永禄元年(1558)11月、清洲城(愛知県清須市)に対立する弟の信勝を呼び出し、謀殺した。

 兄弟の危うさを知っているから、自分の息子も長男の信忠以外は、次男の信雄(のぶかつ)を北畠家、三男の信孝を神戸(かんべ)家、四男の秀勝を羽柴家、五男の勝長を遠山家へ、それぞれ養子に出した。

 それでも信長と信忠が本能寺の変に斃(たお)れた後、信雄と信孝は対立し、信孝は腹を切らされている。

 戦国武将の間では、信長のような事例こそ一般的で、秀吉と秀長の例はまれである。農民出身の秀吉には譜代の家臣がなく、一族を重用するしかなかった。また、秀吉はゼロから出世したので、当初は兄弟で奪い合うものがなかった。だから、優秀な弟と心置きなく二人三脚を組めたと思われる。

秀吉と大大名を結ぶ接着剤

 そこで2番目だが、稀有(けう)な二人三脚の中で果たした秀長の、大き過ぎるほどの役割に目を向けたい。

「豊臣兄弟!」では、秀吉がその場の勢いで、信長に大言壮語を吐き、秀長が後始末に追われるような場面がよくある。これは、この兄弟の役割分担をよく表しているように思う。

 とくに天正10年(1582)6月2日、本能寺の変の勃発後、秀吉が政権の簒奪にまい進し始めると、秀長は兄の名代(代理)として、有力な大名たちを従属させる「取次」と、その状態を保つ「指南」で大車輪の活躍をし、兄の政権基盤を固め維持する上で、大きな役割を果たした。

 同年、秀吉と対立後、いったん和睦を申し入れてきた柴田勝家の元へ、使者として派遣されたのは秀長で、以後、重要な局面での名代は常に秀長だった。

 信長の次男信雄および徳川家康と争った小牧長久手合戦後の天正13年(1585)1月、かつての主君である信雄の元に赴き、秀吉に臣従するよう「取次」したのは秀長だった。その翌年、家康がついに秀吉に臣従すると決意して大坂に赴いた際、秀長の屋敷が宿所になったが、これも秀長が家康の臣従を「取次」したからだと考えられる。

 ほかにも、天正13年の四国出兵は秀長が自ら総大将を務め、長宗我部元親を降伏させると、「指南」を務めた。豊後(大分県)の大友義鎮(よししげ・宗麟)が大坂に来て秀吉に出仕したときも、秀長が接待し、「内々の儀は宗易、公儀の事は宰相存じ候(私的なことには千利休が対応し、公儀の事案、つまり軍事や政治に関する指南は、秀長がよく分かっている)」(「大友家文書録」)と伝えたという。

 要は、秀吉の政権と外様の大大名との連絡は、秀長が一手に握っていたわけだ。秀長はいわば、秀吉と大大名を結ぶ接着剤だった。だからこそ、天正19年(1591)1月に秀長が亡くなると、政権の雲行きが一気に危うくなったのだろう。

次ページ:「食えない男」

前へ 1 2 3 4 5 次へ

[2/5ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。