25歳で死んだ天才評論家が明治日本に叩きつけた「愛国心なんてくだらない」という宣戦布告

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 132年前の今日、すなわち1894年5月16日、一世を風靡した評論家で詩人の北村透谷が、25歳の若さで縊死した。その透谷が引き起こした有名な論争が、「人生相渉(そうしょう)論争」である。

 自らの能力を、国家や政治のために捧げるべきか、超俗的な精神活動に使うべきか――明治日本の文学界を二分した大論争のゆくえとは?

 文学研究者で、上智大学教授の木村洋さんの新刊『「蒲団」の時代:自然主義とは何だったのか』(新潮選書)から一部を再編集して紹介します。

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国家に尽くした頼山陽は偉いのか?

 北村透谷は1868年に生まれ、東京専門学校(現在の早稲田大学)に学んだ。自由民権運動に加わったが、その後、運動への違和感から身を引いた。有力な評論雑誌『女学雑誌』に評論や感想録を発表し始め、1893年に星野天知や島崎藤村たちと雑誌『文学界』を出し、その論争的な主張によって注目された。

 透谷の文業を染めあげるのが厭世的な情念だった。日本における劇詩の先駆けだった透谷の『蓬莱曲』(養真堂、1891年)で、主人公の修行者は世を滔々と嘲けってやまない。「この退屈の世、この所業なきの世、この偽形の世、この詐猾の世、この醜悪の世、この塵芥の世いかで已〔己〕れの心をひと時息(やす)む可き」。読者が言いあてたよう、その厭世家ぶりはバイロンの劇詩『マンフレッド』(一八一七年)に感化されていた。

「透谷隠者」という署名で発表された名高い評論「厭世詩家と女性」(『女学雑誌』一八九二年二月六~二〇日)は、詩的な言葉で言い表された先ほどの厭世家という主体像を、理屈の言葉に置きなおす一種の翻訳と言える。そこで透谷は色濃い厭世を漂わせたバイロン『チャイルド・ハロルドの巡礼』の言葉(「I love not the world, nor the world me」)を引きながら、「社界を厭へるもの、破壊的思想に充ちたるもの、世俗の義務及び徳義に重きを置かざるもの」という厭世家の生き方を喧伝し。

 この流れのうえに、透谷が1893年に引き起こした有名な論争がある。民友社の史論家、山路愛山は「頼襄(らいのぼる)を論ず」(『国民之友』1893年1月13日)で、国家や政治に尽くした頼山陽の歩みを讃えた。透谷はこの政治熱に染まった考えに反論するべく、「人生に相渉るとは何の謂ぞ」(『文学界』1893年2月)を書いた。

 その後、二人は何度かやりとりを交えた。民友社の創立者の徳富蘇峰も愛山に肩入れするかたちで、『国民之友』に「社会に於ける思想の三潮流」(1893年4月23日、無署名)を書き、透谷の一派を攻撃した。人生相渉(そうしょう)論争と呼ばれるこの出来事は、文学史で広く知られている。

 まずそれまで日本を覆った政治熱に逆らうかたちで、文学の独自の役割が自覚されたという意義が人生相渉論争にある。政治とは異なる文学の独立性を訴えた点は、数年前の坪内逍遙の言い分(政治小説批判)と重なる。そのときの逍遙の関心は小説の書き方という技術的な問題に向けられていたが、透谷は政治や国家に身を尽くさない文学者や知識人の生き方、人生観を問題にしていた点で、逍遙とは異なる。

「父と子」の争いと人生相渉論争の関わりに目を向けたい。先に述べたように、自然主義の主な背景として、およそ1865年生まれを境とする「父と子」の分断があった。人生相渉論争がまさに明治思想界を覆う「父と子」の争いの本格的な幕開けを告げる事件だというのが、筆者の考えである。

 ただし透谷と愛山と蘇峰のあいだには、共通点が少なくない。三人はともにキリスト教に深く親しみ、キリスト教思想家エマソンを愛好し、1890年代前半に人物論を競い合うように書いた。論者たちもこの三人を一括りにして、人物論の流行を担った者と見なした。三人は民友社の企画になる評伝叢書『文豪』(民友社、一八九三~一九〇三年)の執筆者でもある。

 だが透谷は1868年生まれで、愛山は1864年生まれ、蘇峰は1863年生まれにあたる。1865年以前生まれか以後生まれかを境としての違いを裏書きするように、どこまで国家や政治を重く見るかをめぐって、両陣営は鋭く対立した。では透谷はどのような言い分を投げかけたのか。

夜を徹して池を見つめた芭蕉

 山路愛山の褒め讃える頼山陽の勤王論を、透谷は「人生に相渉るとは何の謂ぞ」で不十分な成果しかもたらさないものと難じる。「〔山陽の撃ちたるところは〕人生に相渉るが故に人生を離るゝ事も亦た速ならんとす」。そして西行やシェイクスピアやワーズワスを、いっそう高尚な(「天地の限なきミステリーを目掛けて撃ちたる」)戦場にいる「大戦士」と見なす。透谷にとって政治や国家に尽くした山陽の文業は、西行などの文人に比べて二次的なものでしかなかった。そのうえで「功名と利達と事業」を否定してかえりみない、激しい反世俗的な精神を抱いた芭蕉への讃嘆の念を、透谷は「明月や池をめぐりてよもすがら」という芭蕉の句の解釈をとおして綴る。

「彼〔芭蕉〕は池の一側に立ちて池の一小部分を睨むに甘んぜず、徐々として歩みはじめたり。池の周辺を一めぐりせり。一めぐりにては池の全面を睨むに足らざるを知りて再回せり。再回は池の全面を眺むに足りしかど、池の底までを睨らむことを得ざりしが故に更に三回めぐりたり、四回めぐりたり而して終によもすがらめぐりたり。(略)彼は実を忘れたるなり、彼は人間を離れたるなり、彼は肉を脱したるなり。実を忘れ、肉を脱し、人間を離れて何処にか去れる。杜鵑〔ホトトギス〕の行衛(ゆくへ)は、問ふことを止めよ、天涯高く飛び去りて絶対的の物、即ちIdeaにまで達したるなり」。

 池を夜もすがらめぐる芭蕉の異様なまでの一徹さと、その超俗的な精神こそは、透谷の全幅の共感に値するものだった。透谷は芭蕉の句に託しながら、政治や国家に縛られず、世俗のもろもろの価値をかえりみない闘争的な主体像を讃美する。そして引用文のような簡勁な短文の積み重なり、命令形の文末(「止めよ」)、哲学的な言葉(「人間」「絶対的」「Idea」)、詩的な調子(とくに透谷のさまざまな文で目につく上昇、飛翔の形象)、くどいほどの圏点(文字の傍につける「○」「△」などの印)からなる透谷流の文体が、その超俗的な精神の揺るぎなさを引き立てる。

「人生に相渉るとは何の謂ぞ」に「厭世」という言葉は出てこない。だが「楽天家」や「俗世」が負の意味の言葉として持ち出されるように、この評論はほかの透谷の作品と同じく、厭世家という主体像を練りあげる作業の一環だった。ワーズワスや西行や芭蕉といった反世俗的な文人への熱い共感からも、そのことが裏づけられる。

世代間の闘争

 重要なのは、たんに「人生に相渉るとは何の謂ぞ」が厭世家という闘争的な主体像を讃えただけではなく、それによって年上世代の自明とする、政治や愛国心に身を尽くす生き方を二次的な地位に追いやる冒涜性をもつことである。「旧組織の遺物なる忠君愛国」云々(「日本文学史骨」『評論』1893年4月8日~5月20日)、「俗物の尤も喜ぶところは憂国家の称号なり」(「富岳の詩神を思ふ」『文学界』1893年1月)という透谷の挑発的な言い分も、愛国心にたいする反抗的な態度を指し示す。

 政治や愛国心や俗世を否定してかえりみない、本来ならば非難されるべき生き方を、ワーズワスや芭蕉などの名前や哲学的な言葉によって高尚化し、肯定的なものに意味づけなおす価値転覆性がそこに宿っている。この言い分は反発を生まずにはいない種類のものだった。「人生に相渉るとは何の謂ぞ」について、「超然として物外に徜徉(しょうよう)せんとするに至つては抑(そもそ)も亦名教の賊に非ずや」と山路愛山は難じた(「凡神的唯心的傾向に就て」『国民新聞』1893年4月16~19日)。

 徳富蘇峰は「社会に於ける思想の三潮流」で透谷などの『文学界』派を「高踏派」「不健全」と呼び、「絶て社会と相渉ることな」きその態度を咎めた。蘇峰はここで透谷の名前を持ち出さないが、「社会と相渉る」という言葉は明らかに透谷の「人生に相渉るとは何の謂ぞ」をふまえる。そのうえで蘇峰は愛国の意義を説き、経国済世(国を治め、世の人を救うこと)の業に加わるように透谷たちに求めた。透谷の言い分の不穏さがここから裏づけられる。

 この論争での透谷の文のなかに、1865年以後生まれの世代が直面し始めた思想課題がはっきりと刻まれている。その思想課題は、政治熱に満たされた明治の世において、国家や政治に向かわない主体をどのように肯定するかというものである。年上世代にとって理解しがたいこの新たな主体像を、透谷はいちはやく探求し、蘇峰のような有力な言論人をも巻き込むかたちで好戦的に擁護し、喧伝してみせた。

「人生に相渉るとは何の謂ぞ」は反発をもたらしたものの、「高雅警遒(けいしゅう)にして、痛快極りなし」という称賛も生み出した(無署名「文学界第弐号」『裏錦』1893年3月)。この評論が少なくとも一定数の青年の胸のうちを代弁するものだったことは、のちの文芸評論家の回想からうかがわれる。「透谷が文学と人生との交渉に就いて愛山を難じた一文は、あの頃の青年に対して非常な刺戟を与へたものである。我輩なども分らぬながらも当時はあの文を三唱したものであつた」(中島孤島「眉山と独歩」『東京二六新聞』1908年7月14~16日)。

 透谷が愛山や蘇峰と争った人生相渉論争は、そのままのちの保守派論客と自然主義、つまり「父と子」の争いに通じる。透谷の打ち出した、愛国心への冒涜的な態度や厭世主義は、国木田独歩の小説をはじめとする自然主義のありようと重なる。島崎藤村は自然主義運動のさなかに、長編『春』(『東京朝日新聞』1908年4月7日~8月19日)で透谷を主人公としてとりあげ、その顕彰を図った。他方、透谷を攻撃した蘇峰は、自然主義の主な反対者だった。自然主義全盛期の論者たちが透谷を自然主義の先駆けと見なしたのは、当然のことだった。

※本記事は、木村洋『「蒲団」の時代:自然主義とは何だったのか』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。

木村洋(きむら・ひろし)
1981年、兵庫県生まれ。高校時代に丸谷才一の本に出会い、文学研究に興味を抱く。2010年、神戸大学大学院人文学研究科博士後期課程修了。 熊本県立大学文学部准教授などを経て、上智大学文学部教授。博士(文学)。専門は日本近代文学。著書に『文学熱の時代:慷慨から煩悶へ』(名古屋大学出版会、サントリー学芸賞)、『変革する文体:もう一つの明治文学史』(名古屋大学出版会)。2026年に『「蒲団」の時代:自然主義とは何だったのか』(新潮選書)を刊行。

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