「美智子さま」皇太子妃時代の“思いがけない訃報” 敬愛する伯父の葬儀で見えた皇室の「民間では想像もできないようなご配慮」

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通夜の席でも「信じられない」と

 遺族の1人が解説する。

「たまたま、グループの中にお医者さまがいて、診てくださったんですが、その方にはすでにピンと来たらしいんですね。“ひとつ心電図をおとりになったほうがよろしいですな。ともかく病院へ……”とおっしゃられた。

 で、さっそく救急車を手配したわけですが、救急車が来るころには吐いていたので、そのお医者さまに心筋梗塞と判断がついていたらしい。そして、病院に着いたときには、すでに死亡していたのです」

 この間、時間にすれば30分余り。遺族たちは遺体を目前にしながらも、なお、その死を信ずることができなかったという。

「遺体はその日のうちに、東京の自宅へ運んだんですが、夫人は東京へ帰ってきてから、もう一度、かかりつけのお医者さまを呼んで、わざわざ診ていただいたほどなんです。その夜の親族のお通夜でも、一同から出てくる話題は、やはり“信じられない”ということばかりでした……」

昭和44年には東宮へお招きに

 それだけに、博士の死は、皇太子ご夫妻にとっても、思いがけぬ訃報だったわけである。東宮御所の重田保夫侍従もいう。

「とりわけ、妃殿下の驚きは、大きかったことと思います。正田建次郎さんには、お小さいときから、ことのほか可愛がられていらしたというお話ですし、昭和44年、正田さんが文化勲章をお受けになられたときは、ご夫妻で私的に東宮にお招きになり、食事を共にされてます。お親しい間柄でございましたからねえ」

 建次郎氏は、美智子妃にとっては、父親の正田英三郎氏のすぐ上の兄という関係である。大正14年に東大数学科を卒業。翌年から6年間、ドイツに留学。この間に、抽象代数学に関する数々の論文をかの地で発表して、世界の学界から業績を認められ、早くもわが数学界の代表的な学者の1人に数えられる。

 帰国すると、昭和7年、大阪大学(当時は大阪帝大)の創立とともに教授に迎えられ、昭和40年に退官するまで、理学部数学科を主宰し、戦後の昭和29年からは、6年間にわたって学長の地位にあった。

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