「お父さん、勝ったぞー!」K-1の番長から大金星で“愛娘を肩車”…安田忠夫さん「平成の借金王」の異名をとった波乱のプロレス人生
職を転々と…
順調にキャリアを伸ばして行った安田だが、新日本に激震が走った2000年頃より、頻繁に欠場(失踪)するようになる。
自ら「やったことがないのは、ドッグ・レースだけ」と言い切るギャンブル好きで、この時も借金に追われていたのだ。この時も猪木に拾われ、当時、猪木が注力していた総合格闘技要員に。冒頭で述べた試合で大金星を挙げ、2カ月後には新日本プロレスの金看板、IWGPヘビー級王座も獲得。本人が言うには、その直前の契約更改(1月)で、年俸も破格の上昇を見せたという。
「2000万円と少し、ということにしておいて下さい(笑)」(安田)
先述の「魔界倶楽部」の大黒柱としても活躍。人気を博したことが認められたのである。だが、ギャンブル好きは止まらず。2005年1月には年俸制をやめ、「1試合幾ら」のワンマッチ契約にして貰った。「会社から定期的に12分割で振り込まれる形だと、差し押さえの対象になってしまうから」とは安田の弁である。ところが同時期の新日本プロレスはまさに暗黒期(※同年11月には(株)ユークスに身売り)。所属選手として契約していない安田は、徐々に呼ばれなくなってしまった。
「当時の俺はワンマッチ10万から20万。ビッグマッチだと50万円ということもあったから、台所事情が苦しい新日本からすれば呼びにくくなるのも、理解は出来たよな」(安田)
以降、「ハッスル」や「ZERO1-MAX」「IWAジャパン」「IGF」などに上がるも、2007年10月には練炭を使っての自殺未遂騒ぎを起こす。一命を取り留め復帰したが、単発での出場のかたわら、職を転々とする日々が続いた。
「最初が猪木さんに紹介された地方のパチンコ屋。だけど従業員が若い女の子ばかりで、その女同士の仲の悪い様子を観るともう疲れちゃって……。次が岩手の養豚場。1年半くらいやったけど、ギャンブルをしに町まで出かけちゃう自分もいてね(苦笑)。あと豚の世界って、イジメとかあって……。死んだりするのよ、それで。あの境遇経験すると、総合格闘技なんて何も怖くないと思うよ! その後は、草間さん(政一。新日本プロレス4代目社長)の紹介で太陽光パネルの営業もやったな」
2011年2月4日にプロレスラーとしての引退興行を開催。以降、ブラジルで相撲を教えるという手はずだった。しかし、この大会が成功したことで、安田がより多くの取り分を欲しがり、主催者と喧嘩別れに。やむなく、カンボジアでのカジノの仕事をK-1関係者に紹介されるが、渡航してみると実体がなかった。帰国し、新宿の風俗店3店舗の店長や、錦糸町のクラブでの呼び込みに続き、介護職に1年ほど勤しんでいたが、渡泰。バンコクのガールズ・バーの店長を経て、やはり帰国し、鳶職を経て再び渡泰。日本料理店の雇われ店長となるも、ほどなく帰国し、錦糸町の多国籍パブの客引きを経て、警備会社に就職した、という流れのようだ。
筆者と会ったのは、前出の鳶職を辞めた直後だった。
「俺、ズボンをねえ、今、穿いてる1つしか持ってないの。冬を越せるか不安なんだよね。ワハハハハ……」
「鳶をねえ、昨日辞めて来たの。紹介してくれた人はちゃんと住むところも用意してくれて本当、いい人だったんだけど。だってさ、こ~んな(※と言って、両手で間隔を作る)細いところに立つんだぜ! 俺の図体じゃ無理だよ。怖いもん」
おそらく安田に触れた人なら同じことを言うだろうが、何とも愛嬌があり、人懐っこい人物だった。その安田が、意外な人物の名を口にしたことがあった。取材も兼ね、横浜で鍋をつついている時だった。
「大仁田(厚)さんて、どんな人なの?」
筆者は、知るところを述べた。会った時の第一声が、「やぁ、どうですか? 最近の調子は?」(※初対面である)だったこと。その日は2月15日であり、前日にファンから頂いたらしいチョコレートをお裾分けしてくれたこと、これはと思った記者には、目を覗き込むように話すことetc.。
「人たらしというんですかね。マスコミの方で、大仁田さんを悪く言う人はいないと思いますよ」
「ふぅん。やっぱりそうだよな。俺が試合会場で会った時も、驚くほど腰が低いのよ。そういうことが出来なきゃ、あれだけのトップにはなれないよな」
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