「勝負勘が決定的に欠けている」……「野田佳彦」氏は「民主党」をなぜ何度も壊滅させるのか 2度の総選挙惨敗、永田偽メール事件…繰り返される敗北の歴史

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「戦犯」の一人

 演説は抜群にうまい。地盤は盤石で、自らの選挙では圧倒的な強さを誇る。温厚な人柄で慕われ、仲間も多い。しかも、政策通――。野田氏の永田町での評価である。総理にまで上り詰めながら、彼のことを悪く言う人が少ないのが特徴だ。

 しかし、反面、党のトップ、リーダーとしての野田氏を見ると、選挙という冷徹な「勝負」の世界では過去2度にわたって判断を誤り、多くの有望な同志たちを落選へと追いやってきた。そればかりか、自民党に対抗すべき勢力を壊滅的な敗北に追いやり、日本の政党政治を変化、あるいは変革なきものにしてしまった「戦犯」の一人でもある。

39歳で自死

 野田氏は1957年、千葉県船橋市で自衛官の父のもとに生まれた。早稲田大学を卒業後、松下政経塾に一期生として入塾。卒塾後は県議に当選し、国政に進出したのは1992年、日本新党でのことだった。新進党時代に現在まで唯一となる落選を経験。この時はわずか105票差、惜敗率99.86%という僅差での敗北だった。1票の重みを知った野田氏は、駅前での毎日の辻立ちを続けた。これが後の選挙での強さを生むことになる。

 民主党に合流後は順調に出世を重ね、党の役職を歴任。中堅・若手議員の筆頭格として代表選にも出馬した。2005年には2度目となる国対委員長に就任するが、翌年、最初の罪を犯す。いわゆる「永田偽メール事件」だ。民主党の永田寿康代議士が、当時の自民党・武部勤幹事長とライブドア前社長・堀江貴文氏との間に金銭授受があったのでは、との疑惑を国会で追及。堀江氏は粉飾決済の疑いで逮捕、起訴されていただけに、大きな話題を呼んだ。しかし、程なく永田氏がその証拠として示していたメールが偽物であることがわかり、批判はブーメランのように永田氏へ。議員辞職に追い込まれ、前原誠司代表も責任をとって辞任する一大スキャンダルへと発展した。

「この時、野田さんは国対委員長として、メールの内容をきちんチェックすべきだったのに、それを怠って質問を許してしまった。綻びが出た後も、永田氏をかばい続けて事を大きくした張本人です。同じ千葉選出ということもあり、弟のように目をかけていたのですが……」

 その後、政界を去った永田氏は精神を病み、その3年後に自死を遂げた。39歳の若さだった。

「野田さんは墓参りをし、遺族に挨拶も果たしているそうです。東大卒、大蔵省出身の、将来有望な政治家を潰してしまったことは、一生消せない傷でしょう」

後編】ではその後の野田氏の敗北の歴史を詳述する。2012年、民主党を政権から転落させた解散判断のどこが間違っていたのか。そしてその時、やはり彼の傍にいた「お馴染みの人物」とは――。

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