ロシア革命を実現した「ウラジーミル・レーニン」 その名前に隠された謎を東大教授が考察する
102年前の今日、ロシア革命を成し遂げたレーニンが死去した。ソヴィエト連邦という新しい「帝国」を建設した不世出の革命家で、その暴力も辞さない苛烈な政治スタイルは、現代ロシアのプーチン大統領にも引き継がれている。
さて、よく知られる通り、「レーニン」という名前は本名ではなく筆名である。その由来は「シベリアのレナ川にちなんだもの」など諸説あるが、確かなことは分かっていない。ロシア史研究者の池田嘉郎・東京大学教授は、新刊『悪党たちのソ連帝国』(新潮選書)の中で、レーニンの命名の謎についても考察している。同書から一部を再編集して紹介しよう。
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レーニンのルーツ
レーニンは筆名で、本名はウラジーミル・イリイチ・ウリヤーノフという。真ん中のイリイチは父親の名からつくられる父称で、「イリヤの息子」を意味する。
レーニンの父イリヤは1831年、ヴォルガ河がカスピ海に注ぎ込むアストラハンで、町人身分に生まれた。兄の支援のおかげでイリヤは勉学に励み、カザン大学卒業後に物理と数学の教師となった。1863年にヴォルガ河畔の町ニジニ=ノヴゴロドで、医者の娘で四歳年下のマリヤ・ブランクと結婚した。
レーニンの父母のルーツを調べることは、ソ連時代にはタブーであった。血縁者にユダヤ人がいたかどうかは、反ユダヤ主義が伏在するソ連では扱いに注意を要する事柄だった。また、1930年代以降、諸民族中でのロシア人の主導性が強調されるようになってからは、レーニンのルーツにそもそもロシア人がいないのではないかという点も、探究すべきではないこととなった。
それでも地道に調査を続けてきた在野の研究者ミハイル・シュテインがソ連解体後に刊行した著書によれば、レーニンの父方の先祖は17世紀のニジニ=ノヴゴロド県の農奴アンドレイ・ウリヤーニンにまで遡れる。同県のある沿ヴォルガ地方は、ロシア人の他にウドムルト人やチュヴァシ人やモルドヴィン人など様々な民族が暮らしていた。ウリヤーニンもこれらのいずれかにルーツをもつか、あるいは混血であっただろう。
「大ロシア人」という自意識
4代後のニコライ(レーニンの父方の祖父)がアストラハン県に移り、領主の支配の及ばない国有地農民となり、1808年には町人身分となった。姓もウリヤーノフと変わった。ニコライの妻アンナ(レーニンの父方の祖母)は旧姓スミルノワで、正教徒になったカルムィク人の家に生まれたといわれる。ただし、それを証明する文書は、かつてレーニンのルーツ調べに挑んだ作家マリエッタ・シャギニャンが見たとされるものの、現在は確認できない。
レーニンの母方の祖父ブランク医師は、現ウクライナ・ジトーミル市の商人の息子で、ユダヤ人であった。もともとイズライリという名で、1820年に正教徒に改宗してアレクサンドルとなった。彼の妻アンナ(レーニンの母方の祖母)は旧姓グロスショプフといい、ドイツ・リューベック出身のルター教徒の家庭に生まれた。アンナの父は1787年にペテルブルグに到来し、商社やバルト地方関係の司法機関で働いていた。
沿ヴォルガの諸民族、アストラハンのカルムィク人、ウクライナのユダヤ人、ペテルブルグのドイツ人、これらがレーニンの民族的出自を構成した。ロシア帝国の諸地域、ユーラシアの東方と西方が、彼の中でひとつになっていた。彼自身は「大ロシア人」という自意識をもっていたが、これはロシア的文化環境のなかで育った人にとって自然なことであった。
ウリヤーノフ、レーニンとなる
1895年春、レーニンはスイスにいる「ロシア・マルクス主義の父」ゲオルギー・プレハーノフを訪ねて初めて国外に出た。秋に帰国したのち、友人ユーリー・マルトフとともに「労働者階級解放闘争同盟」を結成した。レーニンは25歳であったがすでに禿げあがり、「老人(スタリーク)」と綽名(あだな)された。
彼らは工場労働者への働きかけを始めたが、じきに逮捕された。1897年、東シベリアへの行政流刑が決まった。ユダヤ人マルトフは北極圏のツルハンスクに送られたが、レーニンは幸いにも療養地として知られるミヌシンスクに行けることになった。彼はそこで狩猟や釣りを楽しみ、健康な生活を送った。
1900年にレーニンの刑期が明けた。彼はプスコフをへて国外に出た。翌1901年5月上旬にミュンヘンにて、印刷所宛ての手紙のなかで彼は初めて「レーニン」という署名を使った。その由来は長らく謎であったが、ウリヤーノフ家のルーツを探ったシュテインがこの問題にも光を当てた。シュテインによれば、レーニンが1900年に出国を考えた際に、当局がパスポート(身分証と移動許可証を兼ねる)の発給を拒否するのではないかという懸念が生じた。
そこで妻のクループスカヤが、オリガ・レーニナという女性に支援を求めた。オリガは夜間労働者学校で働いており、クループスカヤと親交があった。オリガにはセルゲイ・レーニンとニコライ・レーニンという二人の兄がいた。セルゲイは農業省、ニコライは司法省の役人で、後者は自由経済協会を通じてレーニンと面識があった。ニコライはペテルブルグ大学で、レーニンの兄サーシャと一緒に処刑された人物と同級でもあった。
レーニン兄弟はウリヤーノフ(レーニン)を助けることに同意して、すでに死期の近かった父親である元地方官吏ニコライ・エゴーロヴィチ・レーニン氏のパスポートを提供したのである。セルゲイが農業省の仕事でプスコフに出張した際に、ウリヤーノフ(レーニン)の誕生日へと書き換えたパスポートを本人に手渡した。当局は実際には出国時にパスポートを出してくれたのだが、印刷所から身分証明を求められた際に、ウリヤーノフ(レーニン)はレーニン兄弟からもらったパスポートを使ったのだという。
シュテインはこの話をレーニン兄弟の子孫から聞いた。同家にはもうひとつ別に伝わる話もあって、それによればパスポート入手の支援をセルゲイに申し入れたのは、彼の古い知り合いでウファーにいた統計士アレクサンドル・ツュルーパ(ソヴィエト政権で食糧人民委員になる)であった。ウファーでクループスカヤとツュルーパのあいだに親交があったことを考えると、2つ目の話の方がより説得力があるように思われる。
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※この記事は、池田嘉郎『悪党たちのソ連帝国』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。










