高田漣、就職氷河期で「ひとまず音楽を仕事に」 父は激怒の電話1時間半も…最後は「まあ頑張れや」
第1回【高田漣、“年の離れたレジェンドたち”に教わったギターと耳 父・渡の縁が音楽の道を開いた】のつづき
西岡恭蔵が1990年に発売したアルバムに、高校2年生にしてギタリストとして参加した高田漣(52)。その後も数々の音楽の仕事をこなしたが、プロになる気はなく、あくまで「バイト感覚」だったという。将来の夢は音楽よりジャーナリスト。それが一転、ミュージシャンの道に進んだ背景とは……。
(全2回の第2回)
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【画像12枚】乳児の頃から「高橋幸宏」とのツーショットまで…貴重カットでたどる「高田漣」の音楽人生
「大きくなったら文章を書く人になるんだよ」
父・高田渡の友人に出会ったり、音楽業界に顔を出したり……。1992年に大学に入学した後も音楽の仕事は続いた。バブルは崩壊していたが、音楽業界はまだCDのミリオンセラーが続出し、活況が続いていた。
「そんなことをしていたら学業が疎かになっていました。かねてからのジャーナリスト志望は変わらず、政治学を専攻していましたが、文学部の授業にも出たりして、文章を書くことに興味がありました。小中学生の頃、母から『大きくなったら文章を書く人になるんだよ』と常々言われていたので、その影響があったかもしれません」
ところが大学4年生になり、いざ就職活動をしようとした段階で現実を見せられた。
「いわゆる就職氷河期に入っていたんです。周りは3年生のときから動いていて、大手新聞社や出版社は、4年になった頃にはもう実質、内定者が決まっていて。時すでに遅し。だからこれも何かの運命、ひとまず音楽を仕事にしようと考えたんです。初めて音楽を仕事として捉えた瞬間でした」
そのことを母に告げると呆れられた。音楽ではなく、物を書く仕事の方向に行くと思っていたからだ。一方、すでに母と離婚していた父の渡からも、ものすごい剣幕で電話がかかってきた。
「お前、何考えてんだ。そんなつもりで大学入れてないぞ、って。それまでは音楽に歓迎ムードだったのに。ただ1時間半近く話しているうち、最終的には『まあお前も頑張れや』と歓迎されましたね。母にそれを告げると『あら、そう』とだけ言っていましたが(苦笑)」
卒業した時期は音楽業界にも厳しさが忍び寄りつつあったが、父のバックミュージシャンを務めたほか、多くのアーティストと仕事をともにしていた。
「辞め時を失ったというか、辞めるという選択肢がないままで続いていたんです。頭の片隅に『音楽を辞める必要ないよな』って」
兼業音楽家としての生き方も素敵と思うも
20代後半に入る頃、通常のギターとは異なる、水平に置いて奏でる「スティールギター」を弾くようになった。それをきっかけにハワイアン音楽の日本の第一人者、山内雄喜に出会う。
「山内さんのところに遊びに行っているうちに、弟子入りという名の追っかけになって。当時、山内さんはこんにゃく屋を稼業としていました。ハワイのミュージシャンはみんな兼業ですから。そういう生き方も素敵だなと」
大いに影響を受け、八百屋で働き始めた。音楽の仕事と重ならず、早朝から午前中に作業ができるからだ。
「兼業が素敵だなという考え方に傾き始めた頃から、なぜか音楽の仕事が忙しくなって。午前中に八百屋の仕事をして、午後に急いで名古屋の営業に出掛ける、というようなこともしていましたが、そこまで無理して……との思いもあり、やむなく専業音楽家に」
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