「銀幕の大スター」と「世界的監督」が撮影直後に“激突”…故・仲代達矢さんの代表作になった「影武者」をめぐる騒動とは

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 世に揉め事の種は尽きまじ。大は国家間から小は近隣トラブル、親子喧嘩まで、世界は揉め事であふれている。そんな中から、人々の記憶に深く刻まれた揉め事を批評家の篠原章氏が現代の視点で検証する「揉め事の研究」。1回目のテーマは「勝新太郎vs.黒澤明」。大スターと大監督の衝突は避けられなかったのか――。【篠原章/批評家】

(全2回の第1回)

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「世界のクロサワ」の不遇時代

 黒澤明監督に「影武者」という作品がある(1980年公開)。製作陣にハリウッドのジョージ・ルーカスとフランシス・コッポラが名を連ねたこの大作は、当初、勝新太郎の主演が予定されていた。黒澤と勝が並んで座り、仲睦まじい姿も見せたが、1979年7月、撮影の準備中に二人は激しく衝突して、勝が降板するという一大事件が起きてしまった。黒澤も勝も、降板劇の実情や背景をほとんど明らかにしていないが、映画ファンにとっては前代未聞の揉め事として記憶されている。

 日本映画界きっての名監督として知られる黒澤は1910年、東京・大井町(現・品川区)生まれ(1998年没)。父は日本体育会(現日本体育大学)の幹部職員だった。戦中の1943年に「姿三四郎」でデビュー。戦後に監督した「醉いどれ天使(1948年)」と「野良犬」(1949年)で大いに注目され、「羅生門」(1950年)がヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞すると、国際的な評価も一気に高まった。

 その後、「七人の侍」(1954年)、「用心棒」(1961年)、「赤ひげ」(1965年)といった名作を製作したが、1960年代後半になると、テレビとの競合による映画界の不振や黒澤の「完璧主義」がたたって、莫大な時間と経費を要する黒澤作品は、国内ではしだいに敬遠されるようになってしまう。黒澤は海外に活路を見いだし、製作費の調達を期してハリウッドへの進出を試みるが、これも思惑通りには運ばず、多額の借金だけが残されていた。

「どですかでん」(1970年)が興行的に失敗した翌71年12月22日、黒澤は自殺を図る。自殺は未遂に終わったが、自死を選ぶほど追いつめられた黒澤に手を差し伸べたのは、ソ連の国策映画会社・モスフィルムだった。その結果生まれたのが黒澤の再起をかけた大作「デルス・ウザーラ」(1975年)である。だが、この映画がヒットを記録したのはソ連だけで、日本や欧米では、話題作となったものの、興行成績は芳しくなかった。

 1976年2月、黒澤は次回作として「乱」(公開は1985年)の脚本の執筆に取りかかるが、予想される莫大な製作費に尻込みする製作会社が多く、実現するまでの道のりはなお遠いものだった。そこで「乱」の製作費を節減するために企画されたのが「影武者」だった。

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