「銀幕の大スター」と「世界的監督」が撮影直後に“激突”…故・仲代達矢さんの代表作になった「影武者」をめぐる騒動とは

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人気の絶頂から「勝新太郎」は転機を迎えていた

「影武者」の主人公は戦国武将・武田信玄と瓜二つのコソ泥ある。信玄の影武者に扮して武田家と命運をともにするというストーリーだ。この主役に黒澤は勝新太郎を選ぶ。勝は信玄と影武者の一人二役を演ずることになっていた。

 勝は1931年柏生まれの深川(現・江東区)育ち(1997年没)。父は杵勝流長唄三味線方(歌舞伎の地方〈じかた〉=演奏者を支える流派の一つ)で、勝自身も同流師範として場数を踏んだ。1954年に転身して大映専属の俳優となり、同い年で関西歌舞伎出身の8代目市川雷蔵と競い合ったが、雷蔵と違って「白塗りの二枚目スター」としてはなかなか芽が出ず、極悪非道の座頭を演じた「不知火検校」(1960年)でようやくスターの仲間入りを果たす。以後、「悪名」シリーズ、「兵隊やくざ」シリーズ、「座頭市」シリーズで人気が沸騰して、日本を代表する俳優と目されるようになった。1960年代後半には、市川雷蔵と並んで大映の大黒柱になった(雷蔵は1969年に逝去)。ちなみに、「不知火検校」と「座頭市」シリーズなどで、小粋で巧みな三味線も披露している。

 順風満帆に見えた勝も、1970年代には一つの転機を迎えていた。「座頭市」の強烈なイメージから逃れる術を知らず、役者あるいは製作者としての次のステップが見えなくなっていたと思う。それが証拠に、70年代後半の勝は、「座頭市」などの時代劇シリーズ(テレビも含む)を淡々と続けるだけで、「さすが勝新太郎!」と唸らせるような「新味」は乏しかった(以下で触れる「顔役」は例外)。そこに降って湧いたように、黒澤からの「影武者」主演というオファーが来た。

オファーを断った「若山富三郎」

 だが、黒澤は「座頭市」などの勝主演作を十分吟味した上で勝を選んだのではないらしい。長きにわたり黒澤の右腕だった野上照代(スクリプター、アシスタント・プロデューサー)によれば「黒澤はテレビっ子」だったという。たまたまテレビで勝と勝の実兄の若山富三郎を見て、信玄役を若山、影武者役を勝というキャスティングで映画を撮る企画を発想し、二人に声をかけた。

 若山には、「勝とも黒澤ともトラブルになりそうだから一緒に仕事はしたくない」という思いがあり、「体調不良」を理由に、このオファーを早々に断っている。反対に勝は飛び跳ねるように喜んでこれを受けいれた。

 NHKには、勝と黒澤が並んで仲良くインタビューを受ける映像が残されているが(NHK特集「黒澤明の世界」1979年11月2日)、勝はこんなふうにその喜びを表現した。

「日本中探してもいないんだ。俺を自由にいじってくれる人は。めぐり会えないんだよ。だから初めてなんだよ」

 野上は次のように回想している(以下『週刊新潮』2016年3月3日号より)。

「黒澤監督は主人公とその替え玉がいる設定が面白いと思って、『影武者』の脚本を書いたんでしょう。主役の武田信玄とその影武者は、当初は若山富三郎と弟の勝で行こうとしていた。兄弟で似ていましたからね。しかし若山に断られ、勝が信玄と影武者の二役、信玄の弟の信廉(のぶかど)役に、勝に似ている山崎努さんが選ばれました。監督は、勝の映画は見てなかったと思いますよ(引用者註:「座頭市」は見ていた)。そもそも勝新と黒澤さんとでは、性格的に無理があったんです。黒澤さんは被写体を徹底して作り上げ、細部まで自分の意図した絵を求めますが、勝は自分で監督をやりたい人。自分をどう撮るか、いちいち口を出すようなところがありました」

「信廉役の山崎努さんを勝に似せるため、勝に自分の写真を送ってもらいましたが、届いた写真のいくつかの裏面に“これを参考にしろ”という丸印が。そういうことをするからこの人はいけないんだ、と思いました。また、黒澤さんは衣装合わせやリハーサルに時間をかけるんですが、勝はそれに参加せず、我々が京都まで赴いて衣装合わせをした。そのとき勝が馴染の店に連れて行ってくれたんですけど、途中から顔を真っ白に塗った芸子さんが来て、勝は楽しそうだけど、黒澤さんは“なんだ、あの気持ち悪いのは。首まで真っ白だったじゃないか”と言っていた。そんなところも二人は合いませんでした」

 実は撮影が始まる前の段階から、黒澤と勝の二人は「相思相愛」とはいえなかったのである。当初それは小さな行き違いに過ぎなかったが、徐々に二人の心の距離は離れていく。勝が「よかれ」と思ってやったことを黒澤は気に入らなかったのである。

 ***

 1979年6月、映画はクランクインする。日本映画史に残る揉め事が勃発するのはその直後だった。第2回【コカイン逮捕、長男の過失致死事件…「世界のクロサワ」との衝突で運命が暗転した「勝新太郎」波乱の役者人生】では両雄の激突の瞬間を中心に見て行こう。

篠原 章(しのはらあきら)
批評家。1956年山梨県生まれ。経済学博士(成城大学)。大学教員を経て評論活動に入る。主なフィールドは音楽文化、沖縄、社会経済一般で、著書に『日本ロック雑誌クロニクル』、『沖縄の不都合な真実』(大久保潤との共著)、『外連の島・沖縄』などがある。

デイリー新潮編集部

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