【べらぼう】壮年期の蔦重を殺したのは松平定信? 命を奪った脚気の原因

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働き盛りに突然命を奪われる

 寛政5年(1793)5月以降、134枚の役者絵を中心に作品が発表された東洲斎写楽は、翌寛政6年(1794)には忽然と姿を消した。もっとも、写楽はのちにビッグネームになったものの、同時代においてさほど売れたわけではなかった。当時、役者のひいき筋が求めたのは役者を美化した絵で、欠点までが誇張されていた写楽の絵には、購買意欲をあまりそそられなかったようなのだ。

 いずれにせよ、蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)はその後も、次の世代の作家たちを育てながら、タガを緩めずに活動を続けた。...

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