【べらぼう】壮年期の蔦重を殺したのは松平定信? 命を奪った脚気の原因

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働き盛りに突然命を奪われる

 寛政5年(1793)5月以降、134枚の役者絵を中心に作品が発表された東洲斎写楽は、翌寛政6年(1794)には忽然と姿を消した。もっとも、写楽はのちにビッグネームになったものの、同時代においてさほど売れたわけではなかった。当時、役者のひいき筋が求めたのは役者を美化した絵で、欠点までが誇張されていた写楽の絵には、購買意欲をあまりそそられなかったようなのだ。

 いずれにせよ、蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)はその後も、次の世代の作家たちを育てながら、タガを緩めずに活動を続けた。十辺舎一九(井上芳雄)や曲亭馬琴(津田健次郎)ら次代を担う戯作者たちが、蔦重のもとで力を蓄えた。新分野の開拓にも熱心で、国学者の本居宣長(北村一輝)にもアプローチすべく、蔦重は伊勢国(三重県東部)の松坂にまで出向く。

 NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の第48回、その名も「蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)」(12月14日放送)では、そんな模様が描かれる。だが、最終回だからそれだけではない。蔦重は無事には済まない。相変わらず忙しい日々を送る最中、突然、病に倒れ、いままで縁のあった絵師や戯作者らが次々と駆けつけるなか、寛政9年(1797)5月6日、47年の生涯を閉じる(数え48歳)。

 亡くなる日、蔦重は死を予感し、自分は午の刻(正午)に死ぬだろう、と予告した。そして、自分の死後の蔦屋について指示し、妻とも最後の別れを惜しんだという。ところが、午の刻になっても死なないので、「遅いではないか」と冗談をいう余裕もあったという。逝ったのは夕刻だった。

 ところで、壮健な蔦重の命を奪った病気とは、どんなものだったのか。

白米を食べる習慣とともに流行

 蔦重の死因だが、曲亭馬琴の『近世物之本江戸作者部類』などに「脚気」と記されている。脚気とはビタミンB1が不足して起きる疾患で、末梢神経の障害や心不全による全身のむくみが引き起こされる。現代においても、偏った食生活の結果として、ビタミンB1が不足している脚気の「予備軍」は少なくないという指摘もあるが、脚気の患者というとほとんど聞かない。

 だが、江戸時代には脚気にかかる人が増え、とくに江戸で流行ったので「江戸煩(わずらい)」といわれた。かなり恐れられたのは、死に至る病だったからである。

 古くは『日本書紀』や『続日本紀』にも、脚気と思われる症状の病気について記されている。とくに『源氏物語』や『枕草子』には「あしのけ」という言葉が散見され、脚気のことだと考えられている。この時代には天皇や公卿のあいだでも、ポピュラーな病気になっていたことがわかる。その理由はあきらかで、平安時代になると、上流階級のあいだに白米を食べる習慣が広がったからである。

 前述のとおり、脚気の原因はビタミンB1の不足で、それは白米食と関係があった。ビタミンB1は胚芽部分に多く含まれるが、精米すると取り除かれてしまうので、白米にはわずかしか残っていない。このため、当時としてはぜいたくな白米中心の食生活を送っていた天皇や公卿が、原因がわからないまま、脚気に悩まされることになったと考えられる。

 時代が下って元禄(1688~1704)のころになると、一般の武士から町人のあいだにまで広く流行した。この時代までに、とくに将軍の御膝元である江戸では、白米を食べる習慣が一般の武士から町人にまで普及した。それにともなって、脚気も広く流行するようになったのである。

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