静岡の港に浮かんだ「女画商」バラバラ遺体…25年前の事件で被害者と「一級建築士」の加害者をつないだ「借金」と「ギャンブル」
自己都合で宮内庁を退職
〈「遺体のすぐ側にBの家族のバッグが浮いており、Aさんの身辺を捜査した結果、Bと交友関係があることも判明した。さらに携帯電話の交信記録から夜間、互いに交信していたことがわかり、任意同行を求めた」(藤枝署の係官)〉(「週刊新潮」2000年12月28日号)
そしてBは12月13日、死体損壊と死体遺棄の容疑で逮捕された。焼津市在住の一級建築士で、元宮内庁技官。建築士の間で“やり手”として知られていた。
〈「我々は医院とか診療所の設計の仕事はあまりやりたがらない。医者は設計にいちいち口を出してくるのでやりたくないのです。彼は積極的に医者の世界に飛び込んでいって仕事をとっていました」(建築士仲間)〉(同)
宮内庁技官の職に就いたのは、静岡県内の工業高校を好成績で卒業してすぐのこと。宮内庁では水道工事に従事し、夜は専門学校に通って建築士を目指した。宮内庁報道課は当時、Bの在籍を公式に認めている。
〈「昭和47(1972)年4月から49(1974)年1月まで在籍しています。管理部工務課で宮内庁各所の修繕を担当していました。退職は自己都合です」〉(同)
郷里に戻り事業を展開
1976年、Bは郷里の静岡に戻った。Bの就職先となった建設会社の社長は、遠洋漁業の漁師だった父親を海難事故で亡くしたことが帰省のきっかけだったと語っている。
〈「彼はすでに二級建築士の資格はもっていて、ウチで一級の資格を取りました。優秀な男でした。5年勤めて独立しました」〉(「週刊新潮」2000年12月28日号)
27歳で自身の事務所を開き、結婚後は4人の子供に恵まれた。32歳の若さで三階建の自宅兼事務所を新築、不動産業や建設業に業務を拡大するなどやり手だったという。同業者は「普通の建築士ではなかなか考えられないことをやる男」とBの手腕を評価しつつ、こんな一面も明かしていた。
〈「意見をはっきりと主張するタイプで議論が白熱すると、相手の言うことは聞かず、一方的に話す所があります。静岡県建築士会を退会したのもそれが一因ですが、彼は一匹狼でも平気でしたね」〉(同)
やがて不況で受注が減ったことを理由に、Bは東京の案件を求めて都内のワンルームマンションに事務所を構えた。後の裁判では、借金が膨らんだ別の要因が明らかになる。
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