“面白いことを楽しむ”姿勢貫き… 温かくてちょっと照れ屋、嵐山光三郎さんの生き方【追悼】
遊び心とエネルギー
月刊誌「太陽」の編集長として活躍するも、社が経営難に陥ると81年、39歳で希望退職に応じた。仲間と青人社を設立。雑誌作りに必要なのは教養や知性ではなく、遊び心とエネルギーだと喝破。本当の情報は自分の世代から離れたところにあると考え、謙虚だった。上司のいびり方、仕事のさぼり方、金と女をどう手に入れるかといった記事で新雑誌を成功させた。
フジテレビの「笑っていいとも!増刊号」に出演。文化人らとのトークで人気者に。執筆依頼も激増した。
自身は流行に乗ろうとせず、新しいものを探り続けた。
「これはと思う人がいると実際に作品を買って応援していた。一緒に行動し成功を共に喜んでいた」(南さん)
漱石や鴎外ら37人の文士に作品と食の嗜好は密接な関係があるとの観点から迫った『文人悪食』(97年)は執筆に5年を要した労作だ。松尾芭蕉の俗人臭い側面を浮かび上がらせた『悪党芭蕉』(2006年)など執筆意欲は衰えなかった。
「何かを暴くのではなく、知りたくなると徹底して調べていく。きりがないと話していました。文士も芭蕉も人間は一面だけでは語れないから面白いとのお考えだった」(山口さん)
“らしい”気配り
50歳を過ぎたら、いまさら褒められようが、けなされようが知れている、自分本位で生きようと語る。
「自転車もスキーも下り坂が気持ちいいと言うのです。冗談めいていても、齢を重ねるとはこういうことだなとずしっとくる」(南さん)
未来という言葉が嫌いと言いつつ、昔は良かったとは回顧しなかった。11月14日、肺炎のため83歳で逝去。
「週刊新潮」の連載「新々句歌歳時記」で俳句の選者を、10月9日号まで務めていた。後任を選んだうえで丁重に連載を辞した。嵐山さんらしい気配りだ。
[2/2ページ]



