「あの事件は俺がやった」自称犯人まで現れた「3億円事件」の闇…伝説の刑事が“サンケイ新聞の購読者”を当たった理由
昭和43年12月10日に起こった「3億円事件」。事件発生から、時効を迎える昭和50年12月までの捜査日数2555日、捜査費用は約10億円。そして延べ約17万人の捜査員が犯人の行方を追ったが、捕まえることはできなかった。だが、捜査員たちが遺した執念の捜査記録の一部は、今も霞が関の警視庁本部に残されているという。昭和史を代表する重要未解決事件の知られざる裏側――。(全2回の第2回)
【写真で見る】3億円事件を追い続けた「昭和の名刑事」の在りし日の姿と、三億円事件の現場や遺留品など
自称、犯人
「3億円事件は時効になったが、昭和43(1968)年12月の発生から60年間、西暦でいうと2028年まで追跡の手を緩めない方針を警視庁はとっていると聞いたことがある。それまで、必要な捜査資料は保管し、いつ犯人らしい人物が現れても、対応できるようにしてあるそうだ。60年の根拠? さすがにそれを超えると、犯人が死亡している可能性が高いからだそうだ」(ある警視庁OB)
事件発生から20年となる昭和63年に民事の時効も迎えた。その際に警視庁は「(犯人が現れたら)所要の捜査を行う」とコメントしている。残された記録をもとに、真犯人らしき人物が浮上したら捜査結果を検証し、真犯人か否かを確かめるのだという。ただし、前出のOBによると、捜査権は公訴を前提としているため、「現実には事情聴取をするぐらいだろうが、それでも真犯人は知りたい」という。
昭和50年の時効後も、退職したOBが事件について語ったり、事件を題材にしたルポルタージュや小説が刊行されたりしたこともあって、特捜本部のあった府中署や警視庁への情報提供は続いた。一方で、「自称犯人」なる人物も何人か現れた。あの事件は俺がやったと周囲に吹聴し、よくよく話を聞いてみると真っ赤なウソだったというケースだ。
「逮捕した被疑者の中で、こいつは他にも何かやっている、あるいは知っていると思われる被疑者がまれにいます。調べも終わり、そろそろ送検という時に時間的余裕がある場合、『あの事件をやったのは誰か聞いていないか』など、広い意味での“雑談”をすることがあります。また、刑が確定し刑務所に収監されたあとで、“あの事件は実は俺がやったんだ”とか“俺の仲間がやったんだ”などと吹聴する輩もいる。3億円事件に限らず、主要な未解決事件は、こうしたところにもアンテナを張って、情報収集をしています」(警視庁刑事部捜査員)
だが、なかにはとんでもない例もある。3億円事件の場合、2000年前後に現れた“自称犯人”の男がそれに該当する。
鹿児島県出身の男(当時50代、事件当時は24歳くらい)は、中学時代の同級生と共に3億円を奪って山分けし、本人は北海道の稚内へ身を潜め、その後、鹿児島に戻って工務店を始めたという。
「事件当時は、東京・練馬区早宮のアパートで暮らしており、そこに同級生が転がり込んできて、あの事件をやったというのです。同級生は粗暴ながら、丹念にメモを取る几帳面な男だと言っていました」(男を取材した週刊誌記者)
しかし、この男は肝心の「犯人しか知りえない秘密の暴露」となる証言がまったくできなかった。例えば、事件当日の現金輸送ルートは三つあり、避けられたルートには工事中の看板があったのだが、それが答えられない。また、日本信託銀行から運ばれた現金は支払予定のボーナスの一部で、現金は他の銀行からも運ばれていたこと。また、連載の第1回でも書いた通り、奪われたジェラルミンケースには、札束がびっしり詰まっていたのではなく、4523人分の封筒に小分けされたボーナスが入っていたのだが、
「彼が言うには、帯封のついた札束をぶちまけて、共犯者の同級生と二人で分けたというんです。また、身長が160センチくらいと小柄なのも気になりました。バイクに乗って足がつくのかどうか。それと、現金輸送車を追い越した上で、輸送車を急停止させる運転技術があるのかどうかも疑わしかった。細かく聞くと、“昔のことで、夢中になっていたから忘れた”というばかりで」(同)
この男の正体は、公正証書原本不実記載で福岡県警に指名手配されていた企業乗っ取りグループのメンバーだった。それまで主に九州で詐欺をはたらいていたが、周囲に「俺は3億円事件の犯人だ。あの事件で捕まらなかった俺がやるんだから間違いない」と言って、仲間を誘っていたという。
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